早川俊二 巡回展の記録

―4つの早川俊二国内展を廻ってー

早川絵画との遥かな風景への旅 馬場 邦子

 

 早川俊二さんと初めて出会ったのは、1992年11月初個展のときのジャパン・タイムズのアートレビューの取材でアスクエア人形町ギャラリーを訪れたときだ。当時42歳の早川さんはたっぷりした黒いセーターを着て、青年のような風貌で、黒目がちの大きな目を輝かせながら、質問に一つ一つ真摯に毅然と答えてくださった記憶がある。インタビューに誠実に答える細身の早川さんはとても腰が低く、当時まだ日本で無名の画家だったせいか、英文の新聞記事になったときにとても喜ばれた様子だった。

 それから23年後の2015年、日本国内4ヶ所を回る展覧会が開催され、私は60数点の早川作品、早川夫妻、応援する人々とともに国内を4ヶ所旅した。早川さんにとってこの国内展はこれまでの画家人生の総括であり、今後の活動への分岐点と思われる。他に比類のない市民主導の貴重な国内展覧会の流れをここに記録することで、今後の活動への讃歌となることを願う。

 

 6月皮切りの長野の北野カルチュラルセンターでの吹き抜けの3階にわたった人物画の大作と静物画が混在する広々とした展示には度肝を抜かれた。ワンスペースの限られた画廊で早川作品を見続けてきた私たちにとって、この縦に突き抜ける空間は新鮮だった。異空間にいるかのように私たちを酔わせた作品群が次々に現れ、一つ一つの作品が放つ光が反響し合い、何倍ものうねりとなって私たちの心と体を貫く。

 1992年の人形町の個展で出会ったあの懐かしい「右向きのアトランティック」は、大作に囲まれながら控えめに息づいていた。その少女は、早川グレーが織りなす何層もの下地に包まれた中からぼんやり現れる。無表情で彫刻のような無機質さをはらむアトランティックという神秘的な少女。キャンバスの淵はけずり取られ、少女の存在をより一層際立たせる。その後の作品が完成度を増し、今となってはこの作品がやや地味に感じるかもしれない。でも、私を早川ワールドへ引き込んだ思い出の一枚に23年ぶりに再会できた喜びで、その後の展覧会ごとにアトランティックという少女の前にしばし佇んだ。

 

 こんな至福の体験を実現してくれたのが早川さんの同級生たちだ。宮澤栄一さんを中心とした同級生の方々が展覧会の実行委員として3年間奔走し、この大規模な早川俊二展というイベントを早川さんの生まれた長野で実現し、その後の札幌、新潟、酒田での展覧会を巻き起こしたのだ。受付や関連グッズ販売にいた同級生の方々の表情は晴れ晴れとし、早川さんの成功を我が事のように誇りにされている感じであった。

私は突き動かされたかように各地での早川展の様子を自身のブログに、そしてウェブ上の情報誌US新聞に書いた。一刻も早くこの世紀の展覧会を世に知らせなければという強い使命感にかられていた。

(注)ブログ(http://blog.goo.ne.jp/kuniwindycity)

US新聞ドットコム・長野展(http://www.usshimbun.com/column/Baba2/Baba2-4.html)

          

新潟展(http://www.usshimbun.com/column/Baba2/Baba2-6.html)

 

 忘れもしない6月6日、北野カルチュラルセンターで世界的なチェリストである藤原真理コラボコンサートに酔いしれた。静謐な絵画に囲まれた空間で、透き通ったチェロの音色が絵画の美しい色彩の渦に吸い込まれていく感覚。2日間にわたった藤原真理コンサートを聴きにきた人々は、芸術の融合から放たれる無限の力にさぞや驚いたことだろう。

 この一流の芸術同士がぶつかり合うという夢のコンサートは、実は私の無謀な思いつきから始まったものだ。以前藤原さんの小田原でのクリスマス・コンサートの開催をボランティアで手伝ったとき、藤原さんが奏でる崇高なチェロの響きとその誠実なお人柄を知り、早川絵画の世界観が合うと直感した。実現に向けて藤原さんの親しい友人の山田浩子さんに早川絵画を紹介し、芸術に造詣の深い山田さんも早川絵画をすぐに気に入ってくださり、藤原さんにコラボコンサートを提案。そして藤原さんが快諾してくださったというラッキーな経緯があった。まさか自分が思い描いた夢が現実になるとは思いもよらなかったので、山田さんの芸術に対する熱意とそれに答えてくださった藤原さんの懐の深さに感動しながらも、長野展の実行委員会にコンサートという余計な負担をかけてしまったことを大変申し訳なく思っている。

 そして、次週の芥川喜好さんの講演会での日本の近代美術史を揺るがすような発言にも驚かされた。パリに渡った浅井忠や小出楢重などの著名な画家たちを引き合いに出しながら、42年もの間パリで研磨を積んでいる早川さんは、他のどんな画家も及ばない「稀有な人」と芥川さんは何回も断言された。35年間美術記者をしてきた芥川さは千人もの画家に取材をしてきたという。その芥川さんが早川さんのような人はいないというのだ。この国内での展覧会は絶対に後世語り継がれると直感し、他の国内展も記録せねばと痛感した。

 

 9月に札幌へ飛び、HOKUBU記念絵画館でクラシック音楽が流れる穏やかな空間の中、コーヒーを飲みながら、20数点の早川作品とじっくり向き合うことができた。ついに北海道の人々にも早川絵画を堪能する機会が訪れたのだ。

 そして、10月終わりからの新潟の砂丘館での古い日本家屋での展示。ヨーロッパで培われた何層にも積み重なった茶を基調とした硬いマチエールが、床の間や蔵の茶色い柱や床と見事に溶け合って、柔らかくて上質な静謐空間を醸し出していた。このなんともいえない澄み切った空気感は言葉に発するのが難しい。何か天から舞い降りてきた崇高なものが我々の心の隅々にいきわたって浄化されていくかのような気分。

 この展覧会で私は早川絵画のコレクターの俵谷裕子さんと知り合いになった。酒田展を開催するきっかけを作られた方で、早川作品を熱心に応援する一人。裕子さんと話していると、早川さんを通じて昔からの知り合いであるかのようだった。

 酒田展では一番古くからのコレクター、堀和子さんとも知り合いになった。ご主人の堀皓史さんが初期の早川作品に注目し、作品を購入し続け、早川さんを精神的にも支え続けてきたのだが、長野展開催直後、展覧会を観ずに亡くなってしまった。和子さんは悲しみの中、展覧会をご主人の分も見届けようと作品に寄り添っておられたような感じだ。

 雪が降りしきる極寒の1月、酒田市美術館のガラス越しに見える枯れた芝生や森林、そして遠くにうっすらと浮かぶ鳥海山の峰々。そんな東北の地に早川作品は舞い降りた。神々しい早川作品群はベージュの大理石の壁にいたく映える。ここでも茶色を基調としたマチエールが、大理石に対応する淡いベージュの木材の壁にも呼応していた。何回か早川展のレビューを日本経済新聞に書き、早川俊二という画家を世に知らしめた竹田博志さんの講演会という後押しも得て、文化土壌のある酒田という土地は早川俊二国内展のフィナーレにふさわしかった。

 

 酒田展では早川夫妻、長野展を開催した実行委員会の同級生の方々、俵谷裕子さん、堀和子さんたちと一緒に泊まったホテルで語り合う機会があった。今回の国内展での早川絵画鑑賞以外の何物にも代えがたい大きな宝物は、早川さんを通して知り合った人々の絆の力であろう。一人一人の力が結集して、美術団体や大企業の協賛に頼らない市民の力による稀な国内展を形作っていったのだ。

 展覧会のフランス大使館からの後援をとりつけるのに尽力した溝口幸三さん。展覧会の作品輸送で奔走された縁の下の力持ちの奥田良悦さん。講演会で早川絵画の魅力の神髄をとことん語った芥川さんや竹田さん。芥川さんの講演会の開催に尽力し、記録してくださった倉田治夫さん。砂丘館での展覧会を館長の大倉宏さんにもちかけた山下透さん。本物を見たことがないのに作品のカレンダーを見てファンになり、東京、埼玉、神奈川、新潟から長野展にかけつけてくれた私の友人たち。カレンダーなどの購入や多額の協賛金を出してこの展覧会を支えてくれた全国の早川ファンの人々。長野展での地元のマスコミの力も大きく、その後の国内展を後押ししたと思う。本当に本当にありがとう!

 

 最後にこの展覧会をやろうと決断し、やりとげた早川俊二さんと奥様の結子さんに大いなる拍手!早川さんは新潟展と酒田展での2回のギャラリートークで、自身の作品とその人生を語った。結子さんは慣れない日本での長期滞在に耐え、ひっきりなしに人々の対応に答えながら、ひたすら早川さんを支え続けた。

 1987年に画廊主伊藤厚美さんがパリにいた無名の画家早川さんを見出し、忍耐強く待った5年後に早川展を自身の画廊で開催して以来、数年おきに伊藤さんの画廊で個展は開催され続けた。それから28年後に開催されたこの国内展の大きな成功を糧に、さらなる高みを目指す早川さんの遥かな風景への旅はまだまだ終わらない。

 

2016年8月10日

(さいたま市在住)