早川俊二 巡回展の記録

早川俊二ギャラリートーク「自作を語る」 聞き手・大倉宏砂丘館館長

 「早川俊二展 遥かな風景への旅」

新潟市砂丘館にて 2015年11月7日

 

【前置き、展覧会の経緯】

 

大倉:皆さん、こんにちは。(観客:こんにちは)晩秋の午後、こんなにたくさんの方にお集まりいただき、ありがとうございます。砂丘館の大倉です。先月末から当館では「遥かな風景への旅 早川俊二展」が始まりました。毎日いろんな方が来ていただいています。昨日は早川さんも新潟に来てくださいまして、明日までご滞在です。

今日はこれから約1時間半、私から早川さんにお話を伺いたいと思います。また会場の方々とのやりとりも後半に予定していますので、お楽しみいただければと思います。最初に早川さんから皆さまにご挨拶をしたいというお話がございましたので、早川さん、お願いいたします。

 

早川:皆さん初めまして、早川です。よろしくお願いします。この展覧会を発案して実現に向けて協力してくださった山下さんに、まず感謝したいと思います。ありがとうございました。

昨日ここに入って、とにかく自分(の作品)が日本家屋に合うかどうかがすごく心配だったんですけど、入ってみて、もうぴったりだったんです。なんか、40年やってきたことがよかったなという、非常に自分自身で感動しちゃって、昨日はいい夜を過ごしました。今日はそうですね、僕、もうとにかく(大勢の人の前で)喋ったことがないんで、勝手なこと言いますけど、ほんとによろしくお願いします。

 

大倉:はい、これからいっぱい喋ってください。(笑)砂丘館で早川さんの展示を開催することになったきっかけをまず最初に。先ほど早川さんからもお話いただきましたが、私の方でも少しお話させていただきたいと思います。ここは新潟市の施設なのですけれども、新潟絵屋・新潟ビルサービス特定共同企業体という民間が管理運営して、様々な企画を行っています。年間6回から7回企画展をしています。早川さんの展覧会は、6年前に先ほどのお話にあった、今日ここにもいらっしゃっている東京在住の山下透さんのコレクション展を開催したのがきっかけでした。山下さんはルオーの作品なんかもお持ちなのですけれども、現代の日本の画家たちの作品も多数所蔵されていて、そこからまあ選りすぐっていただいた作品30点から40点ぐらいを飾らせていただきました。床の間にリー・ウー・ハンと流政之の作品を飾ったのをよく覚えています。その中に、早川さんの作品が1点あって、どこに展示したか今ははっきり思い出せないですけれど。

 

早川:蔵でしたね。

 

大倉:そうそう、蔵の方でした。

 

山下透:お蔵の1階でした。

 

大倉:1階でしたね。ほんとにたくさんの作品あったので。どの作品もとってもよかっただけではなくて、コレクションそのものがなんていうのか、一個一個の作品以上にそれらを選んだ山下さんの眼といいますか、お人柄の感じが伝わってくる素晴らしい展覧会でした。勿論早川さんの作品もその中にあって、いい絵だなあ、と思って見ていたのですけど、残念ながら私、実際に見たのはその1点だけだったんですね。

 

その後、今から2年半か3年前ぐらいにその山下さんからご連絡をいただいて、パリに住んでいる早川さんの作品展が、同級生の方々が中心になって長野で開かれるので、せっかくそういう大きな展覧会があるので、日本の中でいろんな場所に巡回をするような形で 見ていただきたいと。そして「砂丘館でもできないだろうか?」というお話がありました。しかし、なにしろ1点しか見てないのですから、「いい絵」という記憶はあったんですけど、ちょっと迷うことは迷ったんです。ただ山下さんのコレクション展がとっても素晴らしかった記憶があったので、「じゃあ、やらせていただきます」ということで、お引き受けしました。

 

早川さんにお話ししていただく前に、長野の展示についてもふれておきたいと思います。今年の6月にその長野で大きな展覧会がありました。その後北海道に回り、新潟にきて、このあと酒田の市立美術館に行きます。その長野の展覧会を見に行きました。ほんとに大きな会場で、ここと比べられないほど天井が高く、現代的な建物で、3階建てで広い所に飾ってありました。4、5階はあったような印象なんですけれども。大展覧会でした。

その展覧会の経緯は勿論聞いてはいたわけです。しかし改めていろいろ伺ったりして、早川さんは少年時代を長野で過ごされ、当時の同級生の方々が長野にいらっしゃるんですが、早川さんのお母さんも90歳を過ぎてお元気なんですね。その同級生のお一人がお母さんに会ったときに、「40年もパリに行っちゃって、何をしているんだかね」というお話を聞き、それで、その同級生の方が、お母様に早川さんの絵をちゃんと見てもらいたいということを思い立って、これまで展覧会の開催ということをやったことのない方々が、それこそ手作りで、3年ぐらい時間をかけて実現したという話に、私もそのとき感動しました。なので、早川さんのお話の前に、そのご当人でいらっしゃる宮澤栄一さんが今日いらっしゃっていますので、一言長野展のお話を最初に聞かせていただきたいなと思います。宮澤さんお願いいたします。

 

宮澤栄一:皆さん、こんにちは。早川俊二君の同級生の宮澤栄一といいます。絵とか美術史とかそういうことまったく分からないです。いい絵なのか悪い絵なのか、分からなかったんですけど。今ご紹介いただいたように、ちょうどあのお母さんと行きあって、「うちの俊二は困ったもんだね。全然帰ってこない。で、絵描きになったんだけど」って。私も全然どんな絵描きなのか分からなくて。「だけど60も過ぎたんだから、もうこっち帰ってきてもらいてえやね」っておふくろさんが言って、「じゃあ、展覧会やろうかい」って言って、「そんなことできるかよ」ってことがきっかけで同級生に話したら、「えー、いいじゃないか、いいじゃないか」ってことになって。それであのこんな大きな展覧会になってしまって、びっくりしているんですけれども。(笑)で、全国をね、回るっていうこともびっくりしているんですけど。ほんとにその絵を見た人が、女性の方が多いんですけど、「もう気持ちが優しくなる」って言うんですよ。それで「なごむ」「こんな時間を過ごすのはもうほんとに幸せだ。そういう優しい絵だ」っていうことをいろんな人から聞かされて、「あっ、そういう絵なんだな」と感じたりして、また私もそういう絵を勉強させていただいて、「ああ、いいなあ」と思って。あの色がね、私は・・あ、こんなに長く喋っちゃいけないです。そういうことで、「ぜひこう日本全国回っていければいいな」っていうふうに思っています。東京の方から何人かに「東京ではいつやるの?」「どこへ見に行ったらいいの?」って問い合わせがまだ来ているんですよね。「だから、ぜひ東京でも世界でもパリでもやっていきたい」というふうに思いますが、よろしくお願いします。ありがとうございます。

 

 

【早川氏の生い立ち、中高校時代、絵描きになろうと思ったとき、長野の山々を前にして、対象より先に世界があると知り、セザンヌ的に風景を見る】

 

大倉:ありがとうございました。展覧会の経緯はお分かりになったかと思います。早速早川さんに、いろいろお話しを伺っていきたいと思いますが。今回の砂丘館に並んでいる作品で一番古いのは、1980年代のものがありましたか。90年代の初めでしたか?

 

早川:そうですね。90年代初めですね。

 

大倉:つまりこの20年、30年の間、早川さんの画業の中でも最近の作品を中心に並べました。早川さんは、今のこういう作風になるまでに、大変長い過程を経ていらっしゃいます。今日はそれらの作品について伺う前に、その長い過程の話も聞かせていただきたいな、と思います。

 

早川さんの生い立ちをたどってみる形でお話を聞きたいと思います。早川さんは長野の生まれです。今長野市に合併されているそうですけれども、市内ではなくて、郊外の、山の中でお生まれだったということです。そして、実は長野での学生時代から画家になることを決意されていたということです。私が読んだ文章に、その「山を見ているときに、尾根から尾根の距離を描いてみたいと思ったのがきっかけだった」と伊藤厚美さん(アスクエア神田ギャラリー)でしたかが書いていらっしゃいました。とてもそれが印象的なんです。その頃のことから、早川さん、思い出して語っていただけないですか。

 

早川:そうですね。あのね、絵描きになろうと思ったのは中学3年のとき。結構早くて、高校のときはもう絵描きになるつもりで毎日ほとんど絵を描いていたんですけれども。今のお話というのはね。峰から峰というよりは、切通しを通して、向こうの村の家々と自分との距離が、こう、なんとなく見えたというかな、空間が見えたというのが正直なところですけれど。うーん、そうねぇ。いや、当時を思い出すと、朝学校行く前ですけど、家を出るのが暗かったんですよ。でまあ、だいたい写生する場所に行くんですけどまだ暗くて、だんだんこう明るくなってくるでしょ。その瞬間、瞬間がものすごい感動的な色調で。まだ色が出る前ですから、こう、すごい微妙なものがどんどん変わってくるんですけども。そういう中ね、こう、なんていうかなあ、まだ空間なんていう意識はなかったんですけどね。光の調子、もっとも美しい時期(時刻)かなあ。こういうふうに光が強くなっちゃうと、色がバアーッとはっきり出てきて、全体が見えるというよりは物の色が見えてくるでしょ。それよりも、もっとこう、世界全体が見えるような感じだったのね。あのときはもう、それは(世界の)基本かな、っていうふうに思っていて。

 

大倉:中学生ですか?

 

早川:いや高校生です。絵描きになろうと思ったのは中学なんですけど、実際にそういうふうに毎日やったのは高校。でまあ、そういう時期を過ごしまして、学校に行ってもね、朝一番に行って9時までやって、でしたね。で、お昼休みに1時間やって、夕方4時過ぎから暗くなるまで。

 

大倉:一人で?

 

早川:まあ一人っていうか、美術クラブに何人かいたんですけど、二、三人の方がいましたね。

 

大倉:デッサンをするわけですか?

 

早川:デッサンを始めたのはそれこそ受験なんていうことを考え始めたころの、あれ2年生か3年生ですか、先生?

 

鹿山邦夫先生:2年生

 

早川:2年生のときですかね。それも要するに受験なんてどういうことなのかよく分からなかった。でも木炭デッサンやらなくちゃいけないということが分かりまして。木炭デッサンなんてのはどういうことか知らなかったんですね。お風呂で、ほら、炭が出るじゃないですか、消し炭っていうのが。昔、風呂焚いたときに。

 

大倉:ああ、昔のお風呂ですね。

 

早川:そうです。その炭を持ってきて描いていたんですけど、調子が出ないですよね。

 

大倉:画材屋さんで売っている木炭じゃなくて。

 

早川:それはね、先生に教えてもらった。「画材屋さんに行くとね、そういう木炭があるんだよ」と教えてもらったんです。それでまあ買いに行って、木炭用紙なんていうのもそこで初めて知りまして、ということでしたね。あの当時は暗くなってからはデッサンを殆どやっていましたね。まあそう、授業よりも絵を先に、っていうぐらい絵を描いていました。ほんとに絵を描いていました。

 

大倉:今のお話で興味深いのは、やっぱり夜明け、明るくなる、光が強くなる前の時間に非常に惹かれたということ。今の絵にもどこかですでに繋がっているような気がする・・・。

 

早川:そう思うでしょ?

 

大倉:体験ですね。

 

早川:それ(あの体験)があるから今の絵があるんだと思うんですよ。それがなかったら、もっともっとこう、対象というものに引っ張られている。対象の前に世界があるというほうがもう感動的だったんで。

 

大倉:それはやっぱり長野という山の空間と、繋がっているかもしれませんね。

 

早川:そうですね。だんだん話が出てくるんですけど、要するに絵描きになりたいと思った動機というのは、絵が得意だったのは得意だったんですよ。小学校のころから得意だったんですけど・・・、街でセザンヌの画集っていうのがありまして。というより、河出書房という、こんな真四角の小さな画集だったんですけど、ルノアールやらなにやら、いっぱいあったんですね。

 

大倉:私も持っています。

 

早川:それでね、いろいろ見ている中でセザンヌに引っかかったわけね。この人は面白い人だなぁ、と思って。何が面白いかって、どこかに書いていますけども、そのそっくり描いてないっていうのが非常に面白かった。というのは、躍動感がそこに見えるのね、絵の中に。それが土台になっていて、セザンヌというのは、絵を描くとき、ここらへん(頭を指す)に常にある対象でしたね。だからこう風景を見るときにも、セザンヌ的に風景を見る、っていうような、そういう状態がしばらく続きましたっけ。まあ、あとは学生の頃ってやっぱりほら、まだ知らないことが多いから、ルオーがあったり、いろんな、こう、いわゆるヨーロッパの絵描きさんがいますよね。こう軒並みなんとなくやってみるっていうような時期もありましたね。

 

大倉:早川さんは1950年のお生まれですから、戦後まあ5年目ということですね。まだ日本全体も、高度成長期の前ですね。

 

早川:そうですね。僕はそういうことはよく分からなかったですけどね。ただ、今からみると、そういう高度成長の時代を若い頃生きてきて、ヨーロッパに、まあ、わりと早くに行ったんですけど、やっぱりそういう高度成長のおかげで僕は行けたっていうことがあるんじゃないかとは思います。そういうことを言っていた人がいたんで。確かにやはり日本という国がわりと裕福になってきたから。

 

大倉:非常に貧しい時代から非常に急激に豊かになっていった時代ですよね。

 

早川:その時代の中でその恩恵を受けているというのはありますよね。

 

 

【東京すいどーばた美術学院予備校時代、受験勉強としてのデッサンに没頭、創形美術学校2期生時代】

 

大倉:パリに行かれる前に、東京の美術学校に行かれ、東京では昨日伺っていたら、予備校のすいどーばた美術学院に行かれて、デッサンを一生懸命されて、それから創形美術学校に行かれています。日本の東京時代には、どういう絵を描いていらっしゃったんですか?

 

早川:受験のためのデッサンと、絵もなんとなく。まあでも受験のタイプになるのにはずいぶん時間がかかりましたね。一番遅かったかもしれない、僕は。あのように描くことがなかなか出来なくて。

 

大倉:石膏デッサンとか。

 

早川:石膏デッサンは型があるんで、だいたいそのようになっちゃうんですけど。絵の方ですよね、油絵の方。あれはもうセザンヌが抜けなくてずいぶん困りました。そういう意味では、受験用の絵にはならないんで。

 

大倉:セザンヌ風は絵にならない?

 

早川:ならないっていうふうに言われましたね。そんなもんかな?と、だんだん自分でも馴染んでいくんですけど。なにかこうしっくりいかなくて、ってのがありました。ただそういうこと、あの時代っていうのは、やっぱりなんといってもデッサンかな、一番勉強したのは。空間の中に白いものがあって、その白いものの周りにある空間と、その石膏というものの存在をいかに捉えるかっていうのが・・・、それが出来なければデッサン出来ないですもんね。

 

大倉:その東京の美術学校時代の話を昨日夜伺っていて、今この会場で写真を撮っていらっしゃる森岡(純)さんというお知り合いの方がいらっしゃるんですけど、その森岡さんも一緒にすいどーばたから創形美術学校に入ったのだそうですが、その森岡さんが言うには、ほんとにデッサンがですね、早川さんがうまい方だった。ということで、森岡さんは早川さんのデッサンを見て、絵をやめたっていうようなことを言われていました。(笑)それほど、デッサンというものを一生懸命にされた時代だったのですね。

 

早川:そうですね。受験用のデッサンというのは良し悪しがあるんですけど。あれは僕にとってはよかったなと思います。あれをやってないとね、ほんとのデッサンというところにいけなかったような気がする。まあパリでもすごくデッサンやったんですけど。受験勉強のときのデッサンというのが土台になっていて、その良いところと悪いところ、っていうのがパリに行って改めて再考するのにすごく良かったと思います。

 

大倉:その色ではなくて、白と黒のトーンで物を見て。

 

早川:そうですね。そのトーンの部分でしょうね。きっとね。

 

大倉:油絵具に関しては、創形でもいろんなことを学ばれたんじゃないですか?

 

早川:そうですね。創形美術学校というのは、紹介しますと、僕らは2期生なんですけど、先生たちがちょうどヨーロッパから帰ってこられて、田口安男さんがテンペラ技法(注1)を持ってきたり、あと森田恒之さんかな、僕らが勉強したのは。あの油彩技法の勉強もすごく大きかった。森田先生が大阪万博のときに館長さんやられていて、我々は特別に夜3時間ぐらい見せてもらったのかな。あのときに実際の、こう、たとえばゴッホだとか、あと古い14、15世紀のフランドル絵画(注2)とかね。ああいうものの凄さって、まざまざと10センチぐらいのところで見せてもらえたんで、ああ、これはもうヨーロッパに行かなきゃだめかな、とあのときは思いましたね。

 

大倉:日本の美術学校もいろいろありますけども、創形美術学校は私立ではありますが、東京芸大とか武蔵野美術大学よりも、素材に関しては充実していた先生方がいらっしゃったんですね。

 

早川:よかったですね。だって、あの先生方、みんな芸大の先生になっちゃいましたもんね、後でね。

 

大倉:歌田(眞介)さんなんかも。

 

早川:歌田さんもいらっしゃいましたね。

 

大倉:そういう意味では、まさに今に繋がるような勉強をされた。

 

早川:繋がるっていうか、あれがあるから現在があると思います。あのときは僕アルバイトばっかりしていましたからね。勉強そんなに出来なかったんですけども。あのときの、みんながやったり考えたりしたことっていうのは、パリに行っても土台。それがあったから出来たっていうふうにね。

 

大倉:美術学校の中には素材というものについて、ほとんど何も教えてくれないところも、実はあったんじゃないかと思いますけど。そういう点では?

 

早川:そうですね。パリにもその技術を教えている、要するにそのコースがあるんですけどね。僕らの方がよく分かっていた。向こうに行ってね、ああ、このぐらいだったら僕らの方が知っているかな、っていう感じでした。

 

大倉:日本でもう身につけたんですね。

 

早川:そうですね。向こうに行ってわざわざ技術を学ぶ必要がなかったっていう。で、話が飛んじゃいますけど、ヨーロッパに行って、まあフランドル絵画の(模写を)、僕の場合はね、お金が2年ぐらいしか準備できなかったんで、プラド(美術館)にあるファン・デル・ウェイデン(注3)の大きな磔刑図の模写をしてこようかな、と思って出かけたんですけど。向こうに行ってまず美術館を回るでしょ。まあ半年ぐらい(の間に)、2、3ヶ月ぐらいかけて回ったんですけど、これはもう、ちょっと模写なんかやっている場合じゃないな。もう一回ゼロからやり直さなきゃいかんかな、そういうふうな気持ちになって。で、もう一回ボザール(注4)に入ったんです。そこでもう一回デッサンをやり直して。そのときはもうほんとにまたデッサンだけ。ええ、午前中だけでしたけどね。毎日人体の、とくに顔だけ。もう全部描けないんで、顔に集中して、それを何年間かやっているうちに、やっと何かな、デッサンというものの意味が分かってきたというような感じでしたね。

 

大倉:もう少し、そこに至る時代のお話を少し戻って伺いたいんですけど、創形美術学校でかなり技術を学ばれて、ヨーロッパに行ってみたいと思われたのは、やっぱり油絵の故郷だと思ったから?

 

早川:そうですね。要するに大阪の万博で見た・・・、73、72年ですか?(大倉:1970年ですね。)70年ですか。

 

大倉:大阪万博のときなにかあったんですよね。そういう大きな・・・・。

 

早川:あのとき、万博美術館は森田恒之さんが館長さんだったんですよね。で、見せてもらったんです。3時間ぐらい見せてもらったかな。

 

大倉:その体験が大きかったんですね。

 

早川:大きいですね。一番印象に残っているのはゴッホ。あのゴッホのあの絵はたしか梅かなんかだったかな。ゴッホって、ほら、普通皆さん情熱の作家で技法的にはあまりこう考えてないような感じで捉えているじゃないですか。どちらかといえばこう感情をぶつけるような感じで描かれているっていう感じでしょ。ただ実際にあのゴッホを観た時に、なんと計算しつくされた、計算されているか、っていうことにびっくりした。あの下から上に上がってくるね、要するに下地と中間、細部までっていう重ね具合を見たときに、これはやっぱり、こういうことをきちっとやらなければいかんのだな、と。こう、なんていうんですか、自由にね、表現主義的にやっても、その一番土台の、その絵具をいかに定着するかっていうことをしっかりやっとかなければ何をやってもダメかな・・・、っていう認識がそのときは出来ましたね。これはやっぱりヨーロッパに行ったら、こういうのが沢山あるのではないか?と思いましたもん。

 

大倉:時代でいうと、日本の美術が技術を学ぶというのではなくて、もっと違う方向の美術が、かなり東京では話題になっていた時代ですよね。

 

早川:そうですね。要するにアメリカ美術って意味でしょ? はい。

 

大倉:まあ、あるいはね。たとえば、絵から離れたような表現をする人も増えてきた時代ですね。

 

早川:そうでしたね。

 

大倉:早川さんはその最初に2年ということで、ヨーロッパに行かれたのは何年でしたか?

 

早川:74年の10月に行ったんですね。

 

大倉:74年というと、まだあまり簡単にはヨーロッパに行けなかった頃ですね。

 

早川:そうですね。大変な時代でしたけど。

 

 

【ヨーロッパへ、ボザール時代彫刻家マルセル・ジリ氏の元で、ひたすらデッサン、ムフレ賞を受賞】

 

大倉:結局最初はフランスに行かれて・・・

早川:ええ、さっきも言ったように、(フランドル絵画のファン・デル・ウェイデンが)プラドにありますから、マドリッドの、スペインの。まあ、お金も安いっていうようなこともありまして。(スペインに行って模写でもと)そんなこと考えてはいたんですけど。まず友達がいるパリに行って、それから考えるかな、っていうようなところがありました。

 

大倉:すでに少しお話いただきましたけれども、「もう模写をしている場合じゃない」って思ってからのことを聞かせて下さい。ボザールという学校について、私も含めて、分からない方も多いと思いますので、ご説明いただけますか。

 

早川:ボザールっていうのはね、日本語に訳すとどうなるかな。

 

大倉:ファイン・アートですかね?

 

早川:ファイン・アートなんですけど、当時建築科も一緒でしたね。国立美術学校ですよね。(フランスで)かなり上位に位置する学校なんです。(ボザールを)出た人はマチスとかルオーとか、マルケとかがいた時代ですよね。もっとも有名な人が出た。その後もずいぶんいるんじゃない?作家は。

 

大倉:自分で先生を選べたりするという、日本の学校とはかなり違う感じでしょうか。

 

早川:もうねえ、(学校に)登録して、自分の好きな先生のところにもう一回登録してって。

 

大倉:私が面白いと思うのが、彫刻の先生のマルセル・ジリ(注5)という方につかれるんですよね。どうしてそういう選択をされたのですか?

 

早川:選択っていうより、デッサンだけを教えてくれる先生が3人ぐらいいたような気がするんですけれども、そこの教室が一番人気がありました。人気がっていうのはね、

(大倉:マルセル・ジリさんがね。)ええ。生徒が生き生きしているのね。まあそういう意味もあって、僕も皆さんの紹介でっていうか、「(ジリは)いいよ」っていうから、入っただけなんですけど。

 

大倉:デッサンを学ばれたわけですね。

早川:まあ言葉がね、そんなにうまくいってないんで。でもこういうものって描けば分かるじゃないですか。で、先生が来て言ってくれることってね、そんなに言葉はないんです。ちょ、ちょちょっと線を入れてくれたりするんですよ。だいたいそれで分かるんです。

 

大倉:どんなものを描いていたんですか?

 

早川:顔。要するに頭ですね。顔っていうより頭ですけど。常にモデルがいて。ジリの教室でよかったのはモデルが常にいたのがよかったですね。

 

大倉:その教室じゃ常にみなデッサンを?

 

早川:そうですね。デッサンといってもジリの場合、自由で、どういう素材を使ってもいい。ただ単色。もう色が入ってきちゃうと絵になっちゃうじゃないですか。だから「そういう人は他の教室に行ってください」と。でも墨を使ってもいいし、画紙を使ってもいいし、何を使ってもいい。ただ単色でやることで。だから「教室ではモデル描かなくてもいいよ」っていう。「自分の好きな抽象描いてもいいよ」って。ジリはそういうふうに自由にやらせて批評して(教えて)ましたね、それぞれにね。

 

大倉:4年ですか?

 

早川:(在籍期限は)自由なんです。ボザールっていうのは校則では31歳までいれるんですけど。だから僕は31まで。

 

大倉:31までいたんですね。

 

早川:実際74年にフランス行ったんですけど、76年から4年間。そうですね、だいたい。

 

大倉:だいたい毎日?

 

早川:毎日でした。

 

大倉:その頃、今日来られている奥様とご一緒にフランス行かれているのですけども。奥様にお話も昨日聞いたところ、フランスに行ってから、ほとんど早川さんは絵しか描かない日々だったと聞きましたけれども。その頃から、もう毎日絵なんですね?

 

早川:それよりずっと前から。(笑)ただ、その、なんていうんですかね。分からない時期がありますでしょ、若い頃って。そういう時は結構皆さんとも話し、討論やっていました。当時はね。

 

大倉:私はいろんな絵描きさんにお会いするのですが、早川さんに会ったとき、すごくいい意味でね、職人さんを感じたんですよ。一つのことをずっとやってきている人っていう感じが。なんかお話を伺って、ほんとにそうなんだな、っていうふうに思います。

 

早川:そうですね。あのやっぱり絵画っていうのは、技術なくしてはありえないものだと思うんです。

 

大倉:その表現がある以前に、やっぱり技術。そうですね。

 

早川:そう思いますね。それが90パーセントぐらい出来て、あとの10パーセントぐらいが、あの、それぞれの持つ持ち味が重なってくるかなと思うんですけどね。

 

大倉:その10パーセントに至るまでが非常に長かったという。

 

早川:いやあ、まだです。

 

大倉:まだですか。

 

早川:90までいってないような気がするんですよ。なんかね、やり残しているっていうより、やってないものがあるんじゃないか?ってものが今でもあるんですね。だからこういつも不完全燃焼の状態みたいなんですけれども。

 

大倉:それで、いよいよ近年の作品のスタートラインに近づいてきたような気がします。ボザールで4年間ひたすら単色の絵を描いて、一切油絵を描かなかったんですか?

 

早川:描けなかったんですね。結局ね、自分としては、午前中はデッサンやって午後は油絵やろうかなって、そういう時間にしていたんですよね。でもね、こう家に帰って絵具をつけるとね、全然絵の具がつかないわけ。

 

大倉:絵具がつかない?

 

早川:つかない!要するに自分で納得できないっていうか。なんて言えばいいんですかね。できない。絵が!うん、まったくできなかったです。それが長い間続いていて、まあこうなったら徹底してデッサンに集中すればいいかな、って思ったんですけどね。まあ後ろ髪っていうかな、絵具を使うこともやっぱり常に惹かれていて、常に半々の気持ちでしたね、あのときはね。

でもね、結局デッサンを4年か5年か、だんだんやっていくうちに、最初はほんの小さな、このぐらい小さな頭しか描いてなかったですけど。3年の中で何点か自分でも、これはいいな、っていうものができたんです。そうするとジリもしっかり見てくれるようになって、まあやっぱり嬉しかったのは、「これはマンテーニャだ」(注6)なんて言ってくれて。そういう風な表現をしてくれるわけ。そんなに(僕のデッサンが)マンテーニャに似ているわけじゃないんですよ。でもね、こうタッチがね、自分では全然そんな気持ちがなかったんです。そう言ってくれたときに、ああ、そういうふうに比較していてくれるんだな、と思って。多分その教室の中で僕が一番アカデミックなことをやっていたんですよ。若い人たちはもっと抽象的なことをやっていましたからね。だから描写っていうことに対して、一番僕が真剣にやっていたかな。そういう中でそれ(描写)をやっているうちに、ああ、これはもしかしたら鉛筆だけで作品ができるかな?と思いだして、大きな100号大のデッサンを鉛筆で8点ぐらい作って、それであのボザールが終わったって感じでしたね。

 

大倉:それは発表されたんですか?

 

早川:発表されましたよ。(言い直して)発表しました。(笑)

 

大倉:どんな場所で?

 

早川:あのね、だからあれは81年かな?ムフレ賞っていう賞がありまして。ムフレ賞っていう、当時フランスでは、68年の学生運動のあと、そういう賞とかなんとかのシステム一切なくしていたのね。それを復活させたのが何年ぐらいになるのかな?75年以後だと思うんですよ。(ムフレ賞が復活して)2回目か3回目の時に僕もらったんです。

 

大倉:ボザールで学生に与える「賞」ですね。

 

早川:作品を収蔵するっていうんですか?こう・・・。

 

大倉:買い上げる?

 

早川:買い上げるっていってもすごい安いですよ。だからね、学校長が僕のところにきてね。「この(大)デッサン1点入れていいか」って断りに来ましたもの。だから、まあ安いけれど仕方ないか、と思って。あの賞をもらうためにオッケー出しました。

 

大倉:ボザールにその作品は残されているんですね。

 

早川:いいの取られちゃいましたよ。

 

大倉:どんなものを描いた絵だったんですか?

 

早川:人体。人体って、あの、今回こう・・・

 

大倉:今回その1点が新潟にも来ているんですね。大きすぎて飾れませんでした。(笑)

 

早川:そうなんですね。あれはあのシリーズの中で最後の方なんですけど。

 

大倉:それはそのときの8点のうちの1点なんですね?

 

早川:1点です。・・・まあ傑作の方なんですけどね。

 

大倉:ここにあったかな。(カタログを見せる。白黒の作品見せて)(早川:ありますね。)これですね。この作品です。これはほんとに大きくて。

 

早川:100号です。

 

大倉:この壁が埋まるような大きな・・・鉛筆で描かれてるんですか?

 

早川:そうです。まあ、なんていうかな、これができたときは、自分でも会心の作かな?と思いましたね。鉛筆がこうよくつくっていう。ピタピタピタとつく感じ。ボザール時代の最後です。記念・・・。

 

大倉:そうですか。

 

【サロン・ド・メに出展し、多くのギャラリーから引き合いがくるが・・・】

 

大倉:その8点の作品は大学以外でも発表されたんですか?

早川:ええ。でね、そのムフレ賞もらったときに、展覧会をやる権利を与えてくれたんです。(大倉:展覧会をやる権利?)それは、ボザールの会場(ギャラリー)が一つありまして、結構すごく広い会場で。そこを借りたのと、ちょうどジリがサロン・ド・メの創始者なもんですから、「サロン・ド・メに出したらどうか?」というふうに勧めてくれまして。

 

大倉:1970年代半ば、まだ今もあるんですか、サロン・ド・メ?

 

早川:そのへんは分からないです、今は。あるんじゃないですかね。

 

会場の方:ありますよ、今。

 

大倉:ありますか?サロン・ド・メって、ちょっと皆さん今分からない方多いと思いますが、戦後間もなくできた・・・。

 

早川:要するにサロン・ドートンヌというアカデミックなものに対立して作った。

 

大倉:サロン・ドートンヌは秋のサロンですから、サロン・ド・メは5月に。

 

早川:対抗して出来たんですよね。

 

大倉:戦後間もなくは、結構新しい傾向の画家たちの発表の場だったところで、たぶんジリさんもそうですね。創設メンバーですね。

 

早川:そうです。ミロとかね、有名な方が結構いました。

 

大倉:戦後間もない頃に、日本でもサロン・ド・メ日本展というのがあって、これはまた日本のアーティストにすごく大きな影響を与えたんです。

 

早川:そのサロン・ド・メが(日本に)来たでしょ。もうジリが喜んでた。「日本はすごい!」って言ってましたもん。サロン・ド・メを呼んでくれたっていうことで。ほんとにそれは、ええ。

 

大倉:そういえば今日、酒田の市立美術館の熱海熱さんいらっしゃっています。たぶんその酒田の本間美術館にも巡回したはずですね。いつだったか酒田の本間美術館に行ったら、サロン・ド・メ日本展に出品された作品が収蔵されていたの観ました。

早川:あ、そうですか?

大倉:結構日本のいろんなとこを回ったみたいですよ。

 

早川:そう、そうだって言っていましたよ、ジリは。「すごいね。またやってくれないか?」って言っていました。

 

大倉:あのとき一回きりですね。

 

早川:そうなんですね。

 

大倉:だから今やっているのか、と私が言うぐらい。今では日本から遠いものになってしまいましたけれども。そこに出品されたんですか?

 

早川:ええ、それに出品してくれたんで。要するにジリがそのまま入れてくれて、まあわりといい所に飾ってくれたりして良かったんですけどね。それを見たある人から連絡がきたんですけど。その、向こうって凄いんですね。やっぱり美術に関わる仕事をする人たちが。エージェントっていうかな、こちらでいえば。そういう人が来て、女の人なんですけど、「私と一緒に(仕事)やらないか?」って。「私10パーセントでいいから、ギャラリーとのコンタクトやなんやらすべてやってあげるから」というような話がきて、エチエンヌ・デゥ・コーザンスというギャラリーと付き合うようになったんです。

 

大倉:それはパリにあった画廊?

 

早川:それはエコール・デ・ボザールの正面にあったギャラリーで、わりと広くて悪くはなかったんですけどね。そこと3年間ぐらい付き合いましたかね。だからデッサンでまずね。うん、まあ良かったんです、あれは。その3年間は面白いとも思ったんですけどね。フィアック(F.I.A.C. 注7)に出してくれたり、いろんなことしてくれて、良かったんですけどね。なんといってもこう、ほら仕事をね、15日単位で「作品できないか?」って・・・。

 

大倉:催促されるんですね。

 

早川:それがもう辛くてね。

 

大倉:職人に何かを注文する感じですね。

 

早川:そうそう、そんな感じで。それが頻繁になってきたのでちょっと・・・。

 

大倉:絵画製造業という感じですね。それが自分として違和感があった。

 

早川:そうそう、ボザールで賞をもらったときに展覧会ができるのと、エチエンヌ・デゥ・コーザンスというギャラリーと同時個展にして、二つの会場で大きな展覧会やったんです。そのとき、バルチュス(注8)って有名な作家がおられるじゃないですか。ポンピドー・センターで大個展のときだったんです。だからヨーロッパ中のギャラリーが(パリに)来てまして、凄かったんです。で、ボザール界隈のギャラリーをみんな歩くのね。だから僕のところにも相当入りまして、10ぐらいのギャラリーから申し込みがありましてね。なんかすごく恐ろしくなってきて。うん、それは凄かったですね。今はもうないと思うんですけど、その当時イタリアの画商でオーデルマットって、わりとすごい派手にやってた人がいるんですけど。あの人なんか入ってくるなりにね、「これとこれいくら?それがオッケーなら何時間後に電話してこい」と。そういうことを平気で言って、さっさと帰っていっちゃうんだもん。そういうの見ると、これは何かな?って思って、恐ろしくなったです、あのときは。

 

 

【デッサンの感覚を油絵でやりたい!油絵具の研究を一から始める。裏キャンバスに布を貼り、厚い層の下地作り】

 

大倉:で、その後、油絵を始められるわけですけども。そこが聞きたいところです。その3年間の後、いろいろ描いていらっしゃるんですけど。一から出発という気持ちになられたということですが、それはどういう?当時。

 

早川:まあデッサンでだいたい出来てきて、このデッサンの感覚を油絵でしたいな、っていう気持ちが出てきたわけなんですけど。そのときに、普通の市販の絵具ではやっても出来ないわけですよ。同じような感覚にならない。

 

大倉:油絵じゃ描けない?

 

早川:もう絶対つかない!絵具がつかない!そういう(感じ)・・・。

 

大倉:絵具がつかないって、耳で聞くと、なかなか不思議な感覚なんですけど。どういう感じなんですか。

 

早川:そうですね・・・

 

大倉:つくわけですよね、やれば。(笑)

 

早川:ところがね、それがね、安定したように見えない。絵具というのはやっぱりね、画面の上にぴたっとくっついて、それがこう、地(じ)と、ついた絵の具が呼応しないといけないような感覚が(僕には)常にあるんですけど。物を描くとか対象を描いていると、どうしてもその感覚が消えてっちゃうのね。むしろ地と絵具の関係が自然に像になるような感覚。そういう感覚の絵が出来ればいいな、っていうふうに思う。あの当時はね。

 

大倉:「やっぱり絵具自体からやり直したい」という気持ちに繋がったんですか、それは?

 

早川:デッサンやって、デッサンって、ほら、結局、紙の上に鉛筆をのっけるわけでしょ。何回も何回も重ねてこうつけるんですよ。それと同じような感覚で絵具をのっければいいな、っていう。そうしたら、なんとか捉えられるな、っていう感覚があったわけですよ、僕の中にね。それと同じように絵具を使うにはどうするかっていう。あの市販の(絵具)では僕にとっては柔らかすぎる。

 

大倉:市販の?あー、チューブに入ってる・・・

 

早川:そう、あれでは柔らかすぎる。あれを硬くして使うにはどうするか?というか、乾燥が遅すぎるので、それを早めるにはどうするかって。そういう悩みが常につきまとって。だから最初はテンペラ的なものから始めたんですけれども、・・・っていうような感じですね。

 

大倉:一から始めるっていうのは。絵具、それから土台のキャンバスからということですね。

 

早川:そうですね、土台、結局デッサンのときにね、ものすごく実感したことは、紙がきちっとしてないと鉛筆がつかない、っていう感覚がまずあったんです。だからデッサンをやめた理由の一つには、僕はその当時キャンソン(注9)の裏を使っていたんですけれども、そのキャンソンをロールで買っていましてね、その裏が何回も変化したんですよ、裏が。

 

大倉:会社の方(の事情)で?  

 

早川:会社の方で。変わったな、と思ったわけ。やっても同じような効果が出ないというのがあった。それがまあデッサンから油絵に移っていく同時期にあったもんだから。

 

大倉:この紙じゃ描けないと思ったんですね。

 

早川:描けない。まあ他の紙を探さなきゃいかんかなっていう。それがありましたね。

 

大倉:この機会にやっぱり油絵具をちょっとこう・・・

 

早川:まあ歳が31でしょ。だから31、32、33か。そのぐらいになったんですけれど、やっぱり焦ったね。やっぱり絵がね、油絵が出来ないっていうことに対して、そりゃあやっぱり自分でも早く絵を作りたいっていうか。まあまともな絵が出来ればいいなって思ってやって、何やっても出来なかったですね。

 

大倉:じゃ絵具、キャンバス、一から作り直すっていう作業はどうやって。まったくのゼロから、試行錯誤から始められるわけですか。

 

早川:ええ、そうです。この(砂丘館の)中で一番古いのは、上にある「じょうろ」っていう茶色の(作品)があるでしょ。

 

大倉:一番最後の隅の方に飾らせていただいて。

 

早川:あれは、絵具を塗って失敗を重ねていくうちにあれだけ厚くなっちゃったんですよね。

 

大倉:まるで、鉄板をたたいたような感じの表面になってますね。

 

早川:ええ、なってますよね。あれは要するに、出来なくてああなった。あの当時は出来なくてあれだけ厚くなったんですけれども。これだけ厚くっていうか、厚みが面白いと思って、なんか残したいっていう気持ちが生まれたんですよね。だからその、これをもし絵具でやらないとしたらどうするか?っていう悩みが続きまして、布を三枚貼って厚くして、っていうようなことで4年間ぐらいかかりました。

 

大倉:つまりその市販のキャンバスに描くのではなくて、つまり、もうその布はキャンバスではない布ですか?

 

早川:裏キャンなんですけどね。キャンバスの表は白くなっていて、糊の定着が弱いんです。裏キャンの方が糊の定着がいいんで、そこに布を貼るわけですよね。

 

大倉:ああ、別の布ですね。

 

早川:ええ、まあコットンの厚いもの。すごい目の詰まったやつ。かなり厚くて600

グラム(正確には470g/㎡)とか、そんなようなやつを3枚ぐらい重ねて貼って、平

らに地を作っておいて、絵を描くっていうふうになるまでに4、5年かかってました。

板絵をやりたくはなかったのね。なぜかっていうと重たくなるんで。

 

大倉:実際にね。

 

早川:実際にそれはもうほんとにやりにくいもんだったですよ。

 

大倉:キャンバスは全然重さが違いますよね。

 

早川:全然違います。

 

大倉:でもある種の重みというか、そういう厚みのある絵を描いてみたい、というふうに感じるわけですね。

 

早川:それはさっきも言ったように、自分で試行錯誤しているうちに厚くなったのが面白かったというのがある。

 

大倉:あれは一つのきっかけになった作品なんですね。

 

早川:そうです、そうです。でまあ、ヨーロッパに行くと、フレスコなんかを剥がしてきて展示してるものがあるじゃないですか。

 

大倉:そうですね。壁から。

 

早川:それにちょっと似てるでしょ。

 

大倉:似てます。私もそう思ってたんです。

 

早川:それとダブってきたんです。

 

大倉:やっぱりそういう絵を観て、日常的に観てらしたという体験があったわけですね。

 

早川:まあそうですね。

 

大倉:(バックの作品をさして)まあこの作品にしても、こういう隅のところが、まるで壁から剥がしてきたというような感じになっています。かなり意識的にそういうふうにやった。

 

早川:やったわけです。まあ効果あるんですよ。要するに、絵具が割れない厚い布を貼ってあるんで、(絵具が)割れにくいっていうのがあるんです。キャンバス1枚だと絵具が堅く塗られてるんで割れやすい。

 

大倉:そのコットンに絵具が染み込んで、こう・・・。

 

早川:もう接着剤ですね、いってみれば。勿論そうです。だから意外と保存にもいいということはあります。

 

大倉:その柔らかすぎる絵具をご自分なりに改良していかれたわけですね。

 

早川:そうですね。そこは一番大変でしたけれども。透明なもので厚く塗るって大変ですよね。

 

大倉:透明なもので厚く塗る?

 

早川:なかなか出来なかったですけれども。透明に見えるっていうことですけど。意外とね、白濁して絵にならないような絵具しか出来ないんです。何度もやっていると慣れて、練れてきてね。わりときれいな絵具になってくるまでにはずいぶん時間かかりましたね。

 

大倉:顔料から始められるわけですね?

 

早川:そりゃ、勿論。顔料からやらないと出来ないです。

 

大倉:メディウム(注10)も油を?

早川:そこが秘密のところなんです。(笑)秘密です。それは今のところ後の人が考えればいいかな、と。

大倉:それを自分で、全部試行錯誤して・・・。

早川:そうですね。佐藤一郎さんの「油彩画の技法」(注11)ですか。 マックス・デルナー(注12)を訳してくれた。あれは大きかったです。

 

大倉:大変役に立ったって昨日も言われていた。こんな厚い本。私の学生のころ、私は読んではいませんけれども。なんかこんな厚い本になるぐらい油絵具の世界ってのは奥深いんだな、と感じたことがありますね。

 

早川:そうですね。いやあ深い。

 

大倉:あれを全部、いつごろお読みになったんですか?

 

早川:もうその当時(研究を)やってましたから。ちょうど(本が)出ました。

 

大倉:フランスでお読みになって。

 

早川:伊藤さんにすぐ送ってもらってでしたか、たしかあのとき。フランスで勿論勿論。(絵具研究を)やっている最中ですから。

 

大倉:そのころにね。そうですか。そうやって下地を作り、自分で試行錯誤をして、作り上げた絵具で絵を描き始められるんですけれども。早川さんの絵はパレットナイフで描かれていますね。

 

早川:ペインティングナイフですね。

 

大倉:ペインティングナイフですね。これも分からない方がいると思いますので、説明すると、薄い金属のへらみたいなものあるんですけれども、それです。絵を描くためのナイフ、鉄べら。筆で描かずに、ペインティングナイフで描かれるようになったのもその頃からですか?

 

早川:もう最初から。

 

大倉:最初からですか。筆でなく?

 

早川:要するに絵具をのっける感覚が、筆よりよっぽどペインティングナイフの方が感覚に合うじゃないですか。

 

大倉:絵具がつくっていう感覚ですね。

 

早川:そう、そういう感覚が。それはね、レンブラントを観ていつも思ってたんですけど。レンブラントはわりとナイフをうまーく巧みに使って、厚めに使って、というところがあるでしょ。筆では出来ないもの。あの感覚が自分の中に絶対ほしいな、というのがありまして。筆では出来ないものです。

 

大倉:美術館で観た絵画の中で、ナイフを使った表現にインスピレーションがあったんですね。

 

早川:そうそう、そうです。勿論ヨーロッパに行って、あらゆる絵画の、たとえば、こう僕の絵の明るさっていうのは、たぶんピエロだと思うんですよ。ピエロ・デラ・フランチェスカ(注13)の絵の明るさっていうのは、どうしたって獲得したいんで。それは残したいっていう・・・。ただ、表現はもうちょっとレンブラントのように厚みを持ったものにしたいと。ピエロでは(あの厚みは)絶対出来ないですから。レンブラントのような厚みにするにはどうするか?というような。まあ昨日も話しましたけれども、基本的には、地中海の明るさに北欧の静けさが噛み合えばいいかな、とすごく思いましたけれどもね。その当時は両方に惹かれてたんです。結局どちらも捨てがたいものがあったんです。で、日本の墨絵が入ってくれば、まあこれで絵は出来るんじゃないか?って気がしたんですけれども。

 

大倉:そうですか。早川さんの絵は、今回もそうなんですけれども、ほぼテーマで言うと静物と人物ですね。長野に行ったときに、ずうっと壁に静物が続いていて、どれも一見同じような絵で、同じようなタッチなんですけれども、それなのに単調でないというか、一個一個に新しい窓を開けるような、そういう感覚がありました。モチーフは(一般的には)風景も少しありますけれども、(早川さんの場合は)その二つのモチーフは最初から描こうって思ったテーマだったのですか。

 

早川:あのね、テーマはね、むしろあとにくっついてくるんだと思う。(静物も人物も)描きやすかったからっていうわけで・・・。

 

大倉:描きやすかった。

 

早川:風景はいずれ絶対やるんですけれど。このね、この(絵具の)堅さが風景に合わない感じがするのね。それをいかに柔らかくするかっていうところがこれからの課題で。そうしたときに(絵具が出来てきたときに)風景が自然に出来てくるかなと思っています。これから10年20年の中でそれが出来ればいいなと思っていますけど。

 

大倉:早川さんの絵を見ていると、その壺に、そのティーポット自体に興味があるっていうよりも、なんだろう、その、私はちょっとこう「絵が石に見えた」と書いたんですけれども。全体の、なんていうのかな、最初の長野の、空間という言葉はまだなかったけれども、そういうものを感じたっておっしゃいましたけれども、絵そのものの中の空間と言うと、ちょっと違うんですけど、空間というとなんかちょっと抜けたものになっちゃうんですけど、なんか実質もある空間というか、奥行もあるんだけれど、重みもあるような、そういうものを描こうとしていらっしゃる過程に、蜃気楼のように浮かび上がってくるなにかが壷やティーポットである。私は「石の夢」と書きましたけれども。対象自体を描こうとしているんじゃなくて、空間そのものが、夢を見ているようなイメージに見えるんですよね。(笑)

 

早川:(その評は)嬉しかったです、実に。聞こえないですか?ごめんなさいね。

 

大倉:私の声が聞こえないですね?(笑)

 

早川:じゃあ、もうちょっと近づいて。(大倉氏早川氏に近づき、マイク渡す)

 

 

【作品の変化について】

 

大倉:その辺がね、今の作品になってくるわけなんです。そうですね、今の作品を長野展の印象から話していきたいんですけれども。長野で絵を観たときは、あまりたくさんあったものですから、そのどれも同じではないことは分かるんですけども。どういうふうな経過をたどって、その早川さんの絵が変化していったかまでは分からなかったんです。(早川:うん)今回改めて並べたときも、時系列には並べてないんですけども。(早川:ええ)並べてから、時系列を意識して年代を改めて見ていったときに、「ああ、やはり早川さん、こう、80年代、90年代、2000年代と変わってらしたんだな」ということを思いました。それはよく見ないとわからない変化でもあるという気がしました。その変化についてお話したいんです。まず先ほどの「じょうろ」の絵とか、そこにある「アトランティック」。

 

早川:あれは初期のやつですね。

大倉:それから「レイコの像」とか、わりと初期の絵だと思うんですけれども、ああいうものを観ていると、非常に目が詰んでいるというか・・・しかし、ごく最近になってくると非常にハッチング(注14)(斜めに手を振りながら)、かなり同じ方向で筆が動いているというか、大きなリズムみたいなのが出てくるんです。そのへんの試行錯誤をちょっと伺いたいなと思ったんです。語れるようでしたらば。

 

早川:難しいような気がするんですよね。というのはね、こう、絵を描き出すときってのは白紙でしょ、白紙ですよね。これ、このときってものすごいプレッシャーがかかるんですよ。どんな絵になっていくのかなっていう、自分でもね、すごい苦労するんですけれども。まあ、まず茶色を塗って下地を作る。それでもう一回白を入れて、なんとなく茶色が残ったような地になって、それをまあ数回繰り返していくうちに、顔なら顔っていうふうにして、だいたいはあるんですけどね。そういうのをやっているうちに、その色がたとえば、だいたいグレーが多いんですけれども、このぐらいのグレーのトーンで出来あがったらいいかな、っていうのが出てくるんです。だから、そういう世界が出来てくるなかで、だんだん像が浮かび上がってくるような感覚で絵を描きたいところがあるんですね。

 

大倉:最初から、はっきりこれを描きたいと決めてない場合があるんですか?

 

早川:いやあ、ぼ~っとはあるんですけどね。“これ”を描くぞ、とはやらない。それをやると、もう絶対“これ”に引っ張られて絵が出来なくなっちゃう。

 

大倉:むしろその地からスタートしていく。

 

早川:そう。世界から物が生まれてくるっていう、そういう感覚の絵を描きたい。

 

大倉:薄明の中から風景が見えてくる感じですか?

 

早川:それはもう土台です。ええ、それは凄かったですね。あのときはね。

 

大倉:面白いですね。それで、早川さんの絵は観ていると、点描のようにも見えます。(早川:はい。)それから極端に明るいトーンと暗いトーンを持つドラマチックなトーンではなく、中間的な部分でトーンをつくり出していらっしゃると思います。それから今重ね塗りの話をされましたが、目を近づけると、私のこのセーターも目を近づけるといろんな色が入っている、いろんな糸で織ってある、編んであるのですけど、そんな感じで、目を近づけると、灰色、グレーだと思った中に黄色があったり、青があったり、意外と鮮やかということではないんですけど、色味のある色が隠れていて、離れて見て、近づいて見ていくとそういう変化が体験されます。点描と言いましたけども、そのグレーの下から見えるアンバーの色とか、赤とか。今回出品の「蜂須賀さんの壺」なんかは、すごく強い赤があったりとか、緑があったり。

 

早川:あれは実験ですよね。

 

大倉:私が石と書いたのは、石って、たとえば花崗岩のグレーに目を近づけるといろんなものが、石英があったり、長石や雲母があったりしますけど。そういうものを見ているような感覚があるんですよね。

 

早川:実際そういうイメージです。やっぱり、そういうものを見てそういうふうにしたいって。

 

大倉:いつごろからそういう絵作りになられたのですか。

 

早川:やっぱり最初からじゃないかな。世界、たとえば石を見たら、美しいな、と思うじゃないですか。こういうのが絵の中に入ってほしいな、と思うわけですよ。そういうふうにして、こう知識(記憶)の中に美しいものがいっぱいバラバラに入ってきてるわけですよね。それがあるときに、絵具でこういうふうに出来るかな?とか、そういう感じで出てくると思うんですけど。だからヨーロッパに行ってまず絵を観るでしょ。全然関係ない(ような)ピエロ・デラ・フランチェスカとファン・エイク(注15)を両方好きになるってのは珍しいことだと思うんですよ。技法的に正反対なわけだから。だけどいいものはいいとして頭の中に入れちゃったわけです。だからそれをどういうふうに自分で合体していくかっていうのは、こちらの頭でやらなきゃならないことじゃないですか。技法の中で駆使して、この部分がセザンヌ、ファン・エイク的かな、とか、フランチェスカ的かなって。出てきたときにフランチェスカやファン・エイクじゃないものが出てくるじゃないですか。そんな感じでやってきたんです、今までは。

 

大倉:経験の合体ですか?

 

早川:そんな感じですね。だからなんていうかな、さっきの点描なんですけれども。点描というのはね、もっとも単純。やっておられれば分かりますけども。不規則でも規則でもいいんですけどね、意外と調子がとりやすいものなんですけど。そのね、単調につけるということがいやになっちゃうんですよ、やってると。ほんとにね、スーラっていうのはあれだけいいデッサンをして、どうしてあれだけ油でつまらなくなるかって。そういうところなんです。スーラの油絵ってのはつまらない。

 

大倉:スーラのデッサンは素晴らしい。

 

早川:デッサンはね、とてつもないデッサンです、あれは。木炭デッサンをあれだけ硬質に高品位にっていうかな、質の高いものにしたってのは、多分ないんじゃないかな。あの(質の)差っていうのはね。やっぱりスーラっていうのは、もうちょっと、こう技法的に研究していったら面白い作家になったな、というふうに思うわけ。セザンヌも同じなんです。セザンヌの欠点ってのは、あの絵具なんだと思うんですよ。絵具がね、ピエロとかファン・エイクの絵具より弱い。だから非常に残念だなと思うんです。だからなんていうかな、ピエロのような技法をね、もしセザンヌが知っていたならば、これはまた全然違った世界を作ったかな、と思うときがあるのね。まあ、そんなことを絵描きってやるんだと思うんですよ、一生。

 

大倉:点描画は単調というのは、面白い感想です。目が詰んでいるって言いましたけれども、早川さんの絵にも、点描じゃないんだけれども、やっぱりこう、一つ一つの筆にまだそんなに速度や勢いがない時期があったような気がします。

 

早川:調子をつくるのにね、それが一番簡単な方法だった。だからあの時期ってのは、点々点々で出来ている。だからそれでしか像が出来てこない。

 

大倉:そういう時期を経て、よく見ていくと、だんだんそのパレットナイフでの絵具のつけ方に、なんというかな、リズムがあらわれ始めた時期がある。それがいつというのは、私も見極めきれていないのですが。そういう、自分の中に筆の絵具の「つけ方」が変わり始めたときって、あったのですか?

 

早川:それは気持ちの欲求が。要するに、単調にこういうふうにやっていると飽きるんです、もう絵は。飽きちゃう。自分で絵を描いている時に飽きてきちゃう。やっぱりこの調子がふっと流れてほしいと思うのが、左右に行って縦に行って、というような感じなんで。それで絵が出来るわけじゃないですから。そこらへんは像が生まれてくるまで苦労しましたね。

 

大倉:逆に、でも、こうスピードかけ、リズムでいくと、抽象絵画じゃないんですけれども、それに引き込まれるっていうようなことも。

 

早川:面白さのあるわりに厄介なんです。その勢いが邪魔になるときがあるのね。それを修正するのが今度はすごく厄介なんです。もう白に戻しちゃうんです、そういうときは。

 

大倉:そういうこともあるんですね。

 

早川:もういくらでも。あの~、出来なくなったら白に。出来なくなったら白に、というのがもう基本です。

 

大倉;絵によっては結構塗り重ねて・・・。

 

早川:下には違う絵があります。そういうのはいくらでも。

 

大倉:たとえばこの絵ですよね。今、蔵に入ってすぐ正面の所に飾ってある。これは何年だったかな?

 

早川:2004年ぐらいですかね。(カタログを見ながら)前の方だと思います。一番最初ぐらいにある。その次、そうですね。

 

大倉:これですね。これが2004年の作品で、結構大きな作品なんですけれども。これなんかは結構筆っていうか、絵具のつけ方に流れがあって、しかもその流れが最近の「まどろむ」なんかだとわりと全体に大きな流れがありますけど、これなんかいろんな方向の流れがあって。見ていると、最近新潟の田舎にいたときに、すごい数の鳥が空を飛んでいるのを見たんですよ。

 

早川:ええ。

 

大倉:その鳥が一斉にある方向にワアーッと行ったかと思うと、またぱっと方向を変えて。そういうのを見ていて、ああ、すごいな、と思ったんですけど。この絵を観たとき、それを思い出したんです。

 

早川:いいですね。

 

大倉:絵の中でそういう筆の集合である鳥たちが、いろんなふうに方向を変えているような感じがあって、絵の静けさの中の凄い動きを感じますね。

 

早川:そういう絵を描きたいですね、やっぱり。だから人物でも、今の鳥の集合がガアッと頭まで上り詰めるような絵を描きたいですね。

 

大倉:早川さんの絵を観ていると、光とか風という言葉が思い浮かんできそうにもなるんですね。それはやっぱりそうしたリズムというか、流れみたいなものが筆にあるところから来ているのかなというふうに思うんです。それで、そういう筆の動きを絵画の生命にするっていうのは、抽象絵画の中で、サロン・ド・メとか戦後のアメリカ絵画なんかにもでてくるし。その影響で日本の画家たちもそういう絵をたくさん描きました。全然違う歩みを続けられた早川さんの絵の中に、しかしそういう動きの世界が入ってくる。そういう変化があったような気がします。とくに、最近の作品ですね。「まどろむ」などを観ていると、全体がこう大きな滝の流れのような中にあるような感じが、さっきの絵と違って、もっと大きな力を感じる。とくに最近の作品。

 

早川:だからそこいらへんが日本の墨絵になってるんじゃないですかね。

 

大倉:墨絵、それから長谷川等伯も好きっていうふうに。

 

早川:長谷川等伯に出会ったのは頭のデッサンをやっていたときなんですけど。あれを見たとき、ものすごい衝撃があったんですね、白黒の。

 

大倉:それ本物をご覧になった?

 

早川:いえいえいえ。すごい小さな、単調な白黒にしか見えなかったもの(図版)です。そういうものでしたけれども、そこにある種のキワっていうかな、デッサンの本質みたいなものを与えられたような気がしたのね。

 

大倉:松林図ですか?

 

早川:松林図だけです。それでまあ実際日本に帰ってきて観た時に、まあ自分が想像したほどではなかったんですよね。なぜかっていうと、墨絵の持つ調子っていうのは、鉛筆で出す調子よりは弱冠単調かな、って思って。雪舟とね、その両方ちょっと狙って日本に帰ってきたときがあって、両方とも実物を見れたんですけど、自分が想像しているよりはちょっと墨の方が単調かな、と思ったんです。まぁ、それが向こうで・・・。

 

大倉:でも図版見たとき、きたんですね。

 

早川:きたんです。きたんです。あの勢いが。鉛筆にはない、ほら勢いがあるじゃないですか、一発で決まる。あれはもうすごく衝撃的でした。やっぱり鉛筆で描いてもあの力っていうのは出てこないといけないっていう。それが油絵の中に入ってくるわけです。だから(油絵の)タッチというのはそれだと思うんですよね。

 

大倉:拝見していると、なんかいろいろ面白い。面白いというか、興味深いんです。アメリーなんかを観ていても。さっきの話と重なっちゃうかもしれませんけど、たとえばここから庭を見ると、あの手前に紅葉している葉っぱの向こうに緑が見えたり、たとえばここの奥座敷は一番奥深く庭が見えるんですけど、そこから見ると、手前の葉っぱの向こうに違う葉っぱが見えたり、いろんな色が重なって見えるんです。そういう感じがするんですね。奥行なんだけれども、同時にそこに一つの強烈な物質感があるんです。そういう感じがある。奥行きと物質が同時に見えるっていうのは、面白いなと思います。

 

大倉:そうだ、聞こうと思っていたことがひとつあります。人物なんですけど。静物が描きやすいっていうのは分かるのですが、人物はやはり難しいんじゃないかと私は思うんです。早川さんの絵を観て思うんです。人間っていうのは物と違って、やはり人間だから。(笑)そうですね。違うわけですね。(早川:はい。)人が人を見るときの感情というのがあるんですが、早川さんの場合は、その人を描くっていうより、世界から始まって人が出てくるというところがある。ある方が、早川さんの初期の人物像について若干の不満を書かれていた文章を読みました。私も早川さんの絵を観ていると、人物というより、静物に近いように感じるんです。静物と人物は、早川さんの中でどう違うのかなということをちょっと聞いてみたいなと思いました。

 

早川:うーん・・・。

 

大倉:もし何か語っていただけるようでしたら。

 

早川:まあそうですね。僕にとって、基本的には人物と静物は同じです。(セザンヌがモデルをしていた奥さんに向かって、「リンゴが動くか?」と言ったように、人物も静物も同じ意味で、ただ絵のモチーフ・・・)。でも弱冠色気を入れたほうが、っていう思いがあって。色気っていうのは生きているっていう意味でね。

 

大倉:モデルの方というのは、お知り合いの方かなと思いながら見ていました。やっぱり目の前に座っていただくんですか?

 

早川:いや写真です。写真撮って描いています。だからドガの踊り子とかと同じです。すべてあれ写真ですからね、ドガはね。まあ絵のために写真を使っているってことです。僕も写真で描けるように、そのために4年間、頭だけデッサンやったんです。いずれ実物を見ながら描きたいとも思う。

 

大倉:頭のときはモデルがいたんですね。

 

早川:ええ。だからジャコメッティじゃないですけれど、物を見て描くのと、空想で描くっていう区別というのは、その当時ありましたからね。実際見て描くことをやっておかねば、空想では出来ないっていうのがありましたね。

 

大倉:私は「まどろむ」という絵が今回2点ありますけど、あれが新しい感じがするんですけど。

 

早川:未来ですね。

 

大倉:早川さんもそう思っているのかな、なんて。

 

早川:まあそうです。これを土台にして次の時点に展開したいっていうところがあります。まあ出来るか出来ないか分からないけれど、やりたい。

 

大倉:「まどろむ」っていう題が象徴している通り、私は「石の見る夢」って言いましたけれども、人物も何か、やっぱりこう、「レイコ」という絵が黒目が感じられるんですけれども、やっぱり「まどろむ」も含めて、まあ半ば石の中で見てるような空気感を持っていますよね。

 

早川:目を描いちゃうとどうしてもその人のリアリティっていうか、対象のリアリティが出てくるじゃないですか。それは避けたのね。だからどちらかっていうと、薄目ぐらいでちょうどいいかなと。

 

 

【観客からの質問】

 

大倉:はい、ということで、まだまだ伺うべきこともありそうなんですけれど、時間が少なくなりました。小学校時代から最近の絵まで少しいろいろと語っていただきました。もう20分ほど時間がありますので、ここからは、ちょっと会場の方からご感想とかご質問などを受けて、トークの締めくくりにしたいと思います。今日はこの砂丘館ギャラリートークの中でも、一番たくさん来て下さった会じゃないかなと思うほど、数えきれないぐらいたくさんいらっしゃっています。東京から、あるいは秋田の方からも来て下さっているようですし、新潟の方も今回たくさんいらっしゃっています。おそらく早川さんの絵を観るのも初めての方も多いと思うんですけれども、そういう方からでもいいですし。早川さんあまり普段お話されないそうなので、これを機会にちょっと聞いてみたいと思う方、あるいは今日展示場見たご感想などありましたら、いかがでしょうか。もしいただければ。 はい、奥田さん。

 

奥田良悦:先ほどの会話の中に、地中海の明るさと北欧の静けさというようなことをおっしゃいましたね。私が思うには、日本人の持っている、粋(いき)、粋(すい)ですね、それを意識されて描いていらっしゃるところはないかなと思うんですが。

 

早川:粋(すい)・・・。どういうふうに解釈したらいいのだろうか?墨絵がね、どうしても頭にあるんですけれども。それをこう自分の中に捉えていたら、その粋が出るかな?っていう感じがあるんですけれども。それとは違います?

 

奥田:僕の解釈は、哲学者の九鬼周造が「粋の構造」の中に、粋のですね、色で言えば白、グレー、茶色のものが粋であると。(早川:ほーう。)そして、「とくに白と茶は粋である」と言っているわけです。(早川:ほーう。)それで今回拝見して、ほとんどがグレーと白と茶で描かれているのが多いというのを見て、それで早川さんは意識されてなかったかもしれませんけれども、すごくそういうような粋というのがある、と僕は感じたんです。

 

早川:なるほどね。ものすごく光栄なことなんですけれどもね。そういう意識はなかったんです。ただね、この下地にするときに、いろんな色を試すんですけれど、どうしても茶になっちゃうのね。あの、やっぱり世界は、これは僕だけだと思うんですけど、まず白は、それはまああるにしても、その後につける色はまず茶でないと合わない。他の色だとね、どうしても絵が出来ない。茶がいろんな色に、たとえばブルー系にもっていくにしても、緑にもっていくにしても、どっちの方向にもね、合うんですよ。だからそういう意味でこの茶が、それもね、この茶でないとダメなんです。いま市販の絵具っていうのは人工的になってきまして、あの、えーと、なんていうのかな、かなり“にせものの茶”になっているんですね。いわゆる溶けちゃう絵具、なんていうんでしたっけ?溶けちゃうというか、滲んじゃうの。顔料じゃない、いわゆる染料の。人工染料が大部入ってきまして。どこの会社のやつもね、ほとんどそれが強くなって、茶が使えなくなってきている感じがする。だからあの顔料として売られているやつもね、練っているうちに割れてくるんですよ。色が滲んで割れてきちゃう。だから、ああ、昔の人達が使っていた茶っていうか、純粋な茶ですけど、そういうものが手に入らないとなると、ああ、そろそろ絵画っていうのも終わってくるかなって感じがするんですよ。もう全然違った次元に行っちゃうかな、っていうのが・・・。なんかありますか?

 

奥田:いやいや、もう少し発展してむつかしくなってくる。突然であまり考えていらっしゃらなかったということですね。

 

早川:いや、まったく。それは自分で選んだだけですから。

 

奥田:まあ、だけど粋(いき)っていうのはほんとはね、九鬼周造そのまま言うと、解釈の仕方によっては媚態とかね、意気地(いきじ)とか、もう一つ、諦めるということも入っているんですね。それとはまったく関係ないんですけれども、先ほど言った色調においてはそうであります。今回来る前に「早川俊二の絵を語る」というのを昨年一回読んだんですけれど、昨日ざっと目を通しましたらね、皆さんの感想の中に、生きる、絵が生きているということと、それから、在る、存在ですね。それでまあそのところが非常に強調されていて、それがその九鬼周造の言う「粋の構造」の中にも、その存在、実在感、実在的構造というのがあるわけです。それがちょうど日本のその精神にも合うと。だから、やはり早川さん、日本人だな、と確信しました。

 

早川:ありがとうございます。

 

大倉:茶色のことでは、私も感想があります。長野で観たときは、あまり早川さんの絵の中の茶色に気がつかなかったんですけれど、今回砂丘館に早川さんの絵を飾らせてもらって、砂丘館、建物が木で出来ていますので、茶にあふれている空間なんですけれども、とくに蔵は柱がいっぱい立っています。あそこは、あまり柱が気になるときはパネルで隠すんです。今回なんとなく、特に大きな絵はパネルがない方がいいなと思いました。というのもパネルの大きさより絵が大きいということがあったからです。そこでパネルを撤去して絵をかけたら、かけ終わって部屋を見返すと、柱の色がいつもと違って見えてきて、絵と木の色が共鳴しているように思いました。そして改めて絵の方を見てみると、アンバーな色、茶色が絵の中にあるんだなと、改めてそこから気が付いたようなことがありました。茶色って、早川さんの中ですごく大事な色なんだな、と思いました。

 

早川:そうですね。

 

大倉:他にいかがでしょうか?シーンとしてますね。遠慮なくどうぞ。簡単なことでもいいんですけれど。はい。

 

武田光一:先ほど予備校時代にすいどーばたに通われていたと言いましたけど、おそらく年代的に言うと、私、当時すいどーばたで学科の方を担当していたんですが。教えたかもしれない。

 

早川:すいません。たぶんね、行ってなかったです、私。すいません。

 

武田:その後、私、美術史の方やっているんですけれども。先ほどピエロとそれからレンブラントの影響を受けたという話聴きました。それでバルチュスが話題になったっていう、その渦中に・・・。

 

早川:ちょうどバルチュスの大個展のときに僕も個展やらせてもらった。そんなもんでバルチュス(の話)が出てきたんです。

 

武田:影響とかそういうのはあんまり?

 

早川:バルチュスは避けたんです、影響を。(武田:ああ、そうですか。)要するにね、捉われちゃうんですよ、あの世界は。・・・こわい世界。

 

武田:なんかちょっとね、似てるような面もあるのかな、と思ったんです。

 

早川:あれに惹かれる人はいっぱいいまして。ボザールにもキャロンという教授がおりまして、バルチュスの二代目をやって、二代目なんです。もうそっくりなことやっていまして。その先生が「うちに来ないか」って僕も誘われたぐらいなんですけど、蓜島君という同級生が(キャロンの教室に)いたから僕は行かなかったですけどね。

 

武田:じゃあ、むしろ尊敬して避けたとか?そういう。

 

早川:尊敬しなくて避けた。(笑) 作家としては(あれは)まずいなっていう、やっぱりね・・・

 

武田:絵肌がね。絵肌の作り方がなんか。

 

早川:全然違います、全然。それは違います。要するにバルチュスというのはね、なんて言うのかな、うーん、存在は大きいんですけどね。なんて言うのかな、(題材の)虜になっちゃうところあるでしょ。で、虜になったらね、抜け出れない。ちょうどキャロン(教授)もそうでしたけれど、やっぱりね、見ていると、それで(作家生命は)終わりになっちゃうの。うん。

 

武田:なるほどね。捉われてしまう。ガラッと(話変わり)、水墨画にも興味持たれて。

 

早川:それはあります。

 

武田:で、等伯の松林図と雪舟。

 

早川:ええ。

 

武田:でも他にも水墨画いろいろありますんで、私、まあ東洋美術史やっていますので、たとえば中国の水墨画とか日本の宗達のもいいですし、(早川:ええ)。等伯と雪舟には限らないで。

 

早川:限らないっていうより、それより等伯が学んだ牧谿(注16)。牧谿はえらく興味持って、画集ですけど見ました。牧谿、本物は見てないんで、あまり。1回ぐらいしか見てないんで、ちょっと勉強していない。

 

武田:あんまり展示されませんからね。

 

早川:あとはね、夏珪(注17)、馬遠(注18)。あれはパリにも来ましたんで。えらく感動しました。その実物見たときはね。

 

武田:ぜひ水墨画ももっと奥深いんで、勉強していただきたいと。(笑)

 

早川:そうですね。勉強はちゃんとやりたいですけどね。

 

武田:これから風景画に挑戦されるっていうことで期待しておりますんで。

 

早川:そうですね。

 

早川:ありがとうございました。

 

大倉:武田先生の授業には出なかったんですね?(笑)

 

早川:出なかった。全部の授業に出てないですよ。(笑)

 

山下透:じゃあ、私も一言。大倉さんからも早川さんからも私のコレクション展覧会の話をしていただきまして、ありがとうございました。私は早川さんの作品にとっても惹かれますが、絵は観るだけでなく、考えるというのか、読むもの、というようなところがありまして、絵を観ているうちに思索するのがとっても好きで、早川さんの作品にもそういうことを感じるときがあります。(早川:ええ。)それで、早川さんの作品は、人物なり静物を描いていらっしゃるのか、その背景を描いていらっしゃるのか、その空間にあるようにも見えるんですけれども、テーマはどうなっていらっしゃるのかな?ということをいつも思いながら観ています。

 

早川:うん、そうですね。

 

大倉:どうですか?感想のような、質問のような。(笑)早川さんいかがですか?テーマというお話ありましたが。

 

早川:うーん、僕は、こう、具象を選びましたけれど。現れてくるものは何でも本来ならいいわけですね、抽象画でもなんでも。一番はとにかく土台があって、その上に絵具がついて、というのが絵画だと思うんです。だから、それが紙に墨っていうのもいいわけですけど。昨日もちょっと話しましたけど、文字が生まれる前に絵があったでしょ。(山下:はい)。紀元前3万年ぐらい前のやつがまだあるわけですよ。洞窟画として残っているわけですね。多分、こう、人類が滅亡するまで絵と付き合っていくような気がするんです。で、そのときに、その絵の基本っていう土台が、つまり、地があって上につけるという行為っていうのは絶対捨ててはならないものだと思うんです。そうじゃなきゃ絵じゃないと思うんですよ。こう20世紀の美術を見ていて一番危惧するところは、その表現された部分に集中していて、土台とその上につけるっていう、その行為の一番重要なところが忘れられてきているんではないか、というのが僕の、こう危惧っていうのかな。これだったら絵がなくなって行っちゃうんじゃないかなっていう。こういうふうにしてったら終わっちゃうんじゃないかなっていう感じはありました。いろんな現代作家の作品見ているとすごくそれ感ずるのね。で、まあ自分が出来るかどうか分からないけれど、とにかく絵の一番の基本というのを忘れないで、それで残せるものは残したい、というようなところが一番の、こう、自分の今の希望かな。うーん、もっと言い方ありますかね、ほかに。

 

大倉:いや、もっと言い方あるかどうかは分かりません。(笑)

 

早川:て言うのはね、やっぱりどういう状態にしても、優れたデッサンを観て凄いなと思ったんですけれども。たとえばね、近年だとジャコメッティのデッサン。あれを観たとき、鉛筆だけで、ジャコメッティの作品っていうのはとてつもない緊張感がある作品に出来上がっているんです。紙と鉛筆っていう関係がね。それでまあ人物が出来ているんですけど。全部じゃないですよ、中にすげえのがあるっていう話なんですけどね。だけど、ああいうのを観ると、やっぱり絵画の凄さってのはこれかな?って思うわけです。でまあ、その前になるとセザンヌなんですけどね。セザンヌの鉛筆デッサンとか、ちょっとした水彩とかってのは、油絵以上に緊張感があるものがあるんですよね。ああいうのを観るとやっぱり、ああ、なんていうかな・・・、絵画ってのはすげえもんだな、と僕は思っている。まあ僕は絵のことしか考えなかったからそう思うんでしょうけど。そうやっていくとね、案外、地と(絵具を)つけることっていうものを考えている作家ってのは、ヨーロッパの歴史の中でもそんなに沢山いるわけじゃない。どちらかっていえば、神を表現しようとか、裸婦を表現しようとかっていうことの方がずっと多くて、一番の基本である地の上に物をつけて表現するっていうことを意識している作家ってのは少ない。(大倉:うん。)というふうに思ったんですね、ヨーロッパでね。そういう意味で、あの墨絵っていうのは、それ(墨をのせる行為)しかないものですから、白い紙の上に墨だけですよね。それでそう凄い表現をするわけですから。僕が墨絵に興味持つのは南宋(の作家)と、日本画でいうと等伯とか、さっきも言ったように雪舟とかっていうあたりが興味あって観ていましたね。でもまあ基本的には(墨絵は)顔料をつけるのとは違いますから。あのエキスが貰えればいいんじゃないかと僕は思っていますけれどもね。

 

大倉:はい。時間になりましたけれども。もう一人だけ、なんか男性ばかり多かったんで、女性の方でなにか。勿論男性でも。いらっしゃいませんか? はい。

 

女性:セザンヌやレンブラントから影響受けたってお聞きしましたけど、お好きな作家っていらっしゃるんでしょうか?

 

早川:いますよ、いっぱい。

 

女性:一番好きな作家は?

 

早川:それが難しいですね。新しい方からいきますとね。近年でもっとも僕が好きな作家はジャコメッティ。そのデッサン。あと彫刻かな。その前になると、さっきも言ったようにセザンヌなんですけど。その前になるとレンブラントあたりにいきますかね。フェルメール、レンブラント。でその前に僕が凄い影響を受けているのは、ミケランジェロのデッサンなんです。それはもう、もう人類史上最高かな?と思うようなデッサンをなさっているんで。ああ、あんなのが出来たら、ほんのちょこっとでも出来たら、僕、もういいかな、っていう感じ(笑)ですけれども・・・。そういう世界ですね。

 

女性:ありがとうございます。

 

大倉:ありがとうございました。砂丘館で昨日自分の絵を観ていただいて、とても早川さん喜んでくださっているのを見て、私もとても嬉しく思いました。

早川:ありがとうございます。

 

大倉:今回の展覧会、いつもとは違う場所で自分の絵を観る感じは、如何でしたか?もうすでに話してはいただいたのですけど。

 

早川:だいたいね、もう自分の絵で自分の絵でないようなところがありますんで、かなり距離を持って眺めるんですけれども。いい展覧会だなって、自分で惚れ惚れしました。これ自画自賛じゃなくてね、あの、ホッとした部分で・・・。

 

大倉:初めてですね。

 

早川:要するに人の家に行くでしょ。絵がどのようになっているかすごく不安だったのね。で、こういう壁にかかって、居間や画廊とか美術館の壁でしか(絵を)見たことなかったんで。ああ、こんな感じで絵が見えるんなら、まあやってきたことは間違ってなかったかな、っていう、すごく嬉しい思いでした。ほんとにいい機会を与えてくれてありがとうございます。

 

大倉:私も最初、1点しか見てなかったのですけど、今回このように展覧会させていただき、また早川さんといろんなお話を出来て、とてもいい体験をさせていただきました。本当にありがとうございました。

 

早川:ありがとうございました。

 

大倉:早川さんに拍手をお願いします。(拍手)ギャラリートークは終了しますが、早川さんは明日もご滞在されて、1日砂丘館の方にいらっしゃるので、また具体的にもっと身近に話を伺いたい方は、明日来ていただけると直に質問もできるかと思います。ありがとうございました。

 

早川:ありがとうございました。

 

 

=注釈=  *印はウィキペディアから抜粋

 

(注1)テンペラ技法:乳化作用を持つ物質を固着剤として使用する絵画技法。卵テンペラ、カゼインテンペラ、膠テンペラなどがある

 

(*注2)フランドル絵画:15世紀初頭以降フランドルに興った美術の流派。ヤン・ファン・エイク(1390?~1444)、ハンス・メムリンク(1435~1494)、ヒエロニムス・ボス(1450?~1516)、ピーテル・ブリューゲル(1525 / 30~569)、ピーテル・パウル・ルーベンス(1577~1640)などの作家がいる

 

(*注3)ロヒール・ファン・デル・ウェイデン:(Rogier van der Weyden、1399 /1400~1464)は、初期フランドル派の画家。現存しているファン・デル・ウェイデンの作品の多くは、キリスト教的主題が描かれた祭壇画と肖像画である。当時もっとも成功して国際的な名声を得ていた画家

 

(注4)ボザール:日本の美術家のあいだで使われる「パリ国立美術学校」の通称。ボザール=Beaux-Arts:美術の意。パリ国立美術学校:エコール・ナショナル・スーペリオール・デ・ボザール・ド・パリ(l'Ecole National Supérieure des Beaux-Arts de Paris)

 

(注5)マルセル・ジリ:(Marcel Gili, 1914~1993)フランスの彫刻家、パリ国立美術学校教授。サロン・ド・メの創始者メンバー

 

(*注6)マンテーニャ:(Andrea Mantegna, 1431~1506)イタリアルネサンスの画家、代表作「死せるキリスト(1940)」

 

(注7)F.I.A.C.:(Foire Internationale d’Art Contemporain)国際コンテンポラリーアートフェアの略

 

(*注8)バルチュス:(Balthus, 1908~2001 )フランスの画家。ピカソはバルテュスを「二十世紀最後の巨匠」と称えている。

 

(注9)(早川の発言)キャンソン:フランス・Canson社の水彩用紙を指す

 

(注10)メディウム:顔料との練り合わせ剤。展色剤ともいう。リンシードオイル、ダンマール樹脂、アクリル樹脂、アラビアゴム・・など

 

(注11)「油彩画の技法」:正しくは「絵画技術体系」。マックス・デルナー著 ハンス・ゲルト・ミュラー改訂 佐藤一郎訳 美術出版社1980)

 

(注12)マックス・デルナー:(Max Doerner、1870~1939)ドイツの画家。1911年以降ミュンヘン美術大学にて「絵画技法」の講座を担当する

 

(*注13)ピエロ・デラ・フランチェスカ:(Piero della Francesca, 1412~1492)イタリア初期ルネサンスを代表する画家

 

(注14)ハッチング:絵画について行われる描画法の一種で、複数の平行線を描きこむこと

 

(*注15)ヤン・ファン・エイク:(Jan van Eyck、1395~1441)は、初期フランドル派の画家。主にブルッヘで活動し、15世紀の北ヨーロッパでもっとも重要な画家の一人

 

(*注16)牧谿:(もっけい、生没年不明)13世紀後半、宋末元初の僧。水墨画家として名高い。日本の絵画史のなかで最も高く評価されてきた画家の一人

 

(*注17)夏珪:(かけい、生没年不明)南宋(1127~1279年)の画家。当時における院体画の第一人者とされ、山水画が有名。院体画(いんたいが)は、中国における宮廷画家の画風。伝統を重視し、花鳥や山水など写実的で精密に描くのが特徴

 

(*注18)馬遠:(ばえん、生没年不詳)南宋の画家。当時において夏珪と並ぶ院体画の代表的な画家。山水・人物・花鳥画どれも画院中第一と評された