早川俊二 メディアの記録 1992~2000年

『月刊美術 』1992年12月号

早川俊二 小品に投影する自分の宇宙   井出 洋一郎

 

素描に見る独自の魅力

 

 パリで制作一筋の早川俊二の存在が、日本でもとうとう見すごせなくなった。あとは一気に世間の注目を浴びるだけだろう。

 私などはこのまま伝説の画家にしておいて、このまま隔離して置いたほうがご本人のためだと思っていたら、故国で確実に増えていたファンがそうはさせてくれないらしい。いずれ大きな個展が準備されるだろうから、この度の小品展は彼の八年ぶりの帰国みやげというところか、と考えていた私も甘かった。東京に届いた作品を拝見してから、しみじみ画家としての彼の真摯な態度に感銘を受けたのである。彼はますます透徹した目をもち、技を磨いて、この小品に自分の宇宙を投影していることがわかる。

 この二、三年彼は「日本の絵画・新世代一九八九年」展(上野、松坂屋)や「ヴェガの会」(渋谷、西武)などのグループ展にタブロー数点を発表してきたが、まだ知る人ぞ知るといえよう。この機会に早川芸術の充実ぶりを多くの人に味わってもらいたい。日本の現代画家にはまれな美点を多く持った人だからである。何より対象を動じず直視する厳格な造形性に富んでおり、したがって線にしても色彩にしても内面的だが、寡黙のうちに言いたいことを全部言ってしまうというかなり手ごわい画風である。

 早川と私とは立場が異なるが、同じ歳という共通点がある。なのでパリで会って話しこんでも全く違和感がない。一九五〇年長野市の近郊に生まれ、初め創形美術学校に学び、一九七四年にパリ国立美術学校に留学。だからここらへんの心情は良くわかる。ボザールでは特に彫刻家マルセル・ジリに師事。早川の素描の独特の魅力は、やはり彫刻家の造形感覚によるものであろう。例えばジャコメッティの素描の力強く、また透明感のあるその個性は、早川の血脈にも流れている。また先日ヘンリ・ムア展の素描を見ていて、同じことを考えた。

 

「普遍性」と格闘した18年の軌跡

 

 ボザールでの修業の成果は大いに上り、優等賞であるムフレ賞を受け、素描が4点買い上げとなる。以後素描中心から近年タブローへと進み、パリを主な場として個展、グループ展で活躍。地元でも評価も固まり、来年出版されるボザールの絵画教授であったダニエル・ラコムの6分冊の絵画技法書のうち、一冊の「素描における光」に早川の素描5点が、また「絵画におけるマティエール」にはタブロー2点が図版掲載されると聞いた。さすが先生だけに早川の個性を鋭く見抜いたわけである。早川の裸婦素描はまさに光の芸術だし、タブローは生きたマティエールそのものである。

早川は「日本の絵画・新世代一九九八年」展の図録に、こういう一文を載せている。「この我々の宇宙の時空は、永遠にあるものではなく、限られたものらしい。しかしこの地球上に偶然に生まれた小さな生命現象から見ると永遠にも感ずる。昔から言われ思われ続けてきた、”絶対、唯一、永遠、普遍 ”の定義は揺らいだが、にもかかわらず我々の力を超えた高い普遍性があるらしい。画家が何もない白いキャンバスを前にした時、イメージするものは、この普遍性と対面しようとすることだろうか」

 そして画家は展覧会で見たミケランジェロの晩年の素描に、この「普遍性」を実感し、強く打たれる。・・・・・

 早川はパリという、画家にとって極めて恵の多く、かつ厳しい場所にいる。描くものがあるというより、描かねばならぬ環境があるのだ。日本という“普遍性 ”とは最初から縁のない土地から飛び出して、一八年間この普遍性と格闘して来た彼の軌跡が、この数点の小品にもうかがえるのである。そして今の私達を囲む日常の状況に、痛烈なパンチを食わせるだけのパワーも、そこにはまた秘められていると思う。

 私にとって二年ぶりの画家との再会が大いに楽しみであり、また八年ぶりの帰国で受ける画家の故国の印象にも興味津々である。

 

美術評論家 現府中市美術館長 

月刊美術 1992年12月号掲載


『THE JAPAN TIMES』1992年12月6日

In search of the universality of beauty    By KUNIKO BABA

 

“I want to express the universality of art, through things which we cannot grasp as a reality …like God," says Shunji Hayakawa, a Japanese artist, his black eyes opened wide as he stands in front of his paintings.

Hayakawa, who has been living in Paris for 18 years, has just come back to his home country for the first time in eight years to show 11 recently completed paintings. It is his first solo exhibition in Japan.

The 42-year-old Hayakawa, wearing a big black sweater and tight black pants, has already established himself as an artist in Paris, yet remains relatively unknown in Japan.

After graduating from the Sokei School of Art in Tokyo, he moved to Paris to study drawing under Marcel Gili, a sculptor at Ecole National Superier des Beaux-Arts de Paris between 1976 and 1981. He learned European   techniques in art school and planned to stay in Paris for only two years in order to copy paintings of the European masters.

However, he says, “After I went to Europe, I keenly realized artworks cannot be completed by technique alone, and 1 lost what l wanted to paint.

So l decided to start drawings again, returning to the spirit of my beginnings.”

Hayakawa continued the tedious process of learning technique, drawing heads, eyes and noses of models every day.  After three or four years, he finally reached a breakthrough. While many artists tend to lose themselves, he succeeded in finding his own world, or what he had to do as an artist, through basic black-and-white drawings.

  “Art teachers usually teach styles, but l learned what it is to create from (Gili). He taught me an important aspect of drawing: Any artist including oil painters and sculptors can create their own worlds," Hayakawa says.

In 1981, he received the Mouflet award for his works at the French school. Four of those drawings are on display at the school now and several of Hayakawa's works are used in beginning art textbooks.

After graduating, he began to paint and hold solo exhibitions and group exhibitions in Paris.

“Hayakawa's nude drawings could be called ‘art of light,' a basic of gradation of light and shadow, and the matiere (material) of his paintings has a strong power of life,'' says art critic Yoichiro lde.

Hayakawa says it took about 10 years before he developed a color he felt he could call his own, before he felt he was creating his own world.

That color is a gray, based on an egg-type tempera. When viewing his works, the strong white and light grays make the viewer feel as if those images are disappearing. The viewer suddenly becomes absorbed in the paintings.

Hayakawa also cites the traditional blackandwhite sumi-e, which originated in China, as having a large influence on his world.

“In particular, I was really shocked by Hasegawa Tohaku's (1539-1610) ‘Shorin-zu’ (pine grove drawing)… it's just a black-and-white world," Hayakawa says.

He adds that the famous works of sumi-e master Sesshu (1420-1506) and early traditional Japanese paintings by Tawaraya Sotatsu (circa1640) and Ogata Korin (1658-1716) also influenced him. He emphasizes he really learned more about Japan after he left it and began studying traditional Japanese works.

Asked why he remains in Paris, he replies, “I can concentrate because l can be mentally free of troubling human relationships,” such as those that cloud Japanese society.

Hayakawa is now aiming to achieve full expression through his works, leading viewers to his world—“the universe of arts.”

“Just as God is called an absolute and supreme human being, I can see a universal view in Tohaku’s Shorinzuand l can see that Michelangelo’s drawings have a universal view.” He believes that the universality of Michelangelo and Tohaku are one in the same, but that modern Japanese painters, who tend to imitate American art, are not capable of such a high level of creativity.

Since Hayakawa went to Paris, he has endeavored to grasp the universality of beauty. “Hayakawa’s works have a fresh perspective, so they attract young Japanese people,” says Ide, who praises the paintings’ clarity, as opposed to Japanese paintings which tend to be vague and foggy.

His paintings are well-balanced with beautiful lines from Japanese paintings and clear drawing from western paintings. Says Ide: “He is a very unique artist who has a good balance of Western and Japanese feelings.” Perhaps because Hayakawa lives in his own world, far from his homeland, the pureness of his works has the power to shock Japanese society.

 

The show runs until Dec. 19 at Gallery A square, located at STR Bldg. 4F, 1-5-13 Ningyocho, Nihonbashi, Chuo-ku, Tokyo. Tel.(03)5695-4435.

 

THE JAPAN TIMES DECEMBER 6, 1992

 美の普遍性を求めて     馬場 邦子

 

「私は、美の普遍性を求めたい。それは我々が実在として掴むことができない、神のようなもの。それを絵画を通して表現したい。」と日本人画家早川俊二氏は、黒い瞳を大きく見開き、自身の作品の前で語る。

18年間パリに住んでいる早川氏は、11点の最新作を見せるため、8年ぶりに母国に帰ってきたところだ。今回が日本で最初の個展である。

たっぷりとした黒のセーターと黒の細みのズボンに身を包んだ42歳の早川氏。彼はパリではすでに芸術家として認められているが、日本ではまだあまり知られていない。

 

 東京の創形美術学校を卒業して、パリに渡リ、パリ国立美術学校で、教授で彫刻家でもあるマルセル・ジリ氏の下で、1976年から1981年の間デッサンの勉強をした。当初美術学校で西洋美術の技法を学び、ヨーロッパの巨匠の作品を2年間模写する予定だった。

しかしながら、「ヨーロッパに行った後、技法だけでは、芸術は完成できないという事を痛感し、何を描くべきかわからなくなってしまった。それで、再び初心に戻り、デッサンを学び始める決意をした。」と早川氏は語る。

 早川氏は退屈なデッサンの勉強に励み、来る日も来る日もモデルたちの頭部、眼、鼻を描き続けた。3、4年経った時、ついに壁を破ることに成功した。多くの芸術家たちが自己を失いやすい中、彼は黒と白のデッサンを通し、アーティストとして何をなすべきか、そして、自分自身の芸術の世界を見つけるのに成功した。

「美術の教授たちはつねに様式を教えるが、私はジリ氏から創造とは何かという事を学んだ。彼はデッサンの重要な視点を私に教えた。それは(デッサンによって)油彩画家も彫刻家も、芸術家なら自己の世界を創造できるということ。」と早川氏は語る。

 1981年、フランスの美術学校(パリ国立美術学校)でムフレ賞を受ける。現在、早川氏の4点のデッサン作品が学校に展示され、数点の作品は美術の入門テキストに使われている。

 美術学校を卒業後の早川氏は、油彩をやり始め、パリで個展及びグループ展を行う。

 

「早川氏のヌードデッサンは、光と影のグラデーションを基本とした『光の芸術』と呼ぶことができ、またそのタプローは、強い生命感を持っている。」と美術評論家の井出洋一郎氏は語る。

 早川氏は、独自の絵の具を開発するのに10年という歳月を費やし、自己の世界の創造に近づいたと言う。

 彼の作品の色調はグレーで、その技法はエッグテンペラを基本とする。彼の作品を眺めていると、強い白と淡いグレーとで、描かれたものが消えていくかのように感じ、鑑賞者が、突然絵画の中に溶け込んでしまうかのようだ。

 

 早川氏は、中国を起源とする日本の伝統的な黒と自の世界である墨絵が、自身に多大な影響を与えたと引用する。「とりわけ、長谷川等伯(1539~1610)の『松林図屏風』には、実に感銘を受けた・・・まさに白と黒だけの世界だ。」と語る。また、有名な墨絵の巨匠雪舟(1420~1506)の作品、初期の伝統的な日本美術である俵屋宗達(1640年頃)や尾形光琳(1658~1716)らの作品が、彼に影響を与えたと言う。彼は力説する。日本を出た後、日本について本当により多くのことを学び、日本の伝統芸術について勉強を始めた。

 

「何故パリに残るのか。」と尋ねると、日本の社会によくあるような「人間関係の煩わしさから離れ、精神的な自由を得て、集中できるから。」と早川氏は応えた。

 早川氏は現在、観るものに「芸術の普遍」を思わせるような自己の完璧な表現に近づくことを目指している。

「等伯の『松林図屏風』や、ミケランジェロのデッサンに普遍的な視界を見ることができる。それは神のように絶対的で至高なものと呼ばれる。」 と早川氏は続ける。彼は、ミケランジェロと等伯の作品に同一の普遍性があると信じている。しかし、アメリカンアートを模倣しがちな現代の日本の画家たちの仕事は、そのような高い創造の世界を可能にできないと考える。

 

 早川氏はパリに渡って以来、美の普遍性を把もうと努力している。「早川氏の作品は新鮮な視点を持ち、日本の若い人たちを魅了することだろう。」と井出氏は語る。そしてぼんやりと霧の中にあるような日本人の作品に対し、早川氏の作品に明快さがあることを絶賛する。彼の作品は、日本画の美しい線と、西洋画の持つ明快なデッサンの両者をバランス良く持っている。「彼は西洋と日本の感性をバランス良く持つ、非常にユニークな画家である。」と井出氏は続ける。 おそらくその理由は、故国から遠く離れ、自分自身の世界に生きているからであり、その作品の中にある純粋性は、日本の社会にある種の衝撃を与える力を持っているだろう。

 

英語講師・ライター 

THE JAPAN TIMES 1992年12月6日 掲載 (日本語訳)


『読売新聞 日曜版』 シリーズ「絵は風景」 1997年12月7日

 自然で柔らか 空間の不思議

『アフリカの壺』早川俊二       芥川 喜好

 

   壼がある、

   空間のなかに、と

   とりあえず言ってみる。

   どうも感じが出ない。

   これは「壺が描かれた絵」だろうか。

   そういう意味での静物画とは、だが随分違うもののようにみえる。

   さわさわと、空気の粒子が手に触れんばかりに粒立って視界を浸している。

   そのなかに影のように壺はあらわれる。むしろ、空気の粒子がそこだけ壺のかたちに凝集して周囲と連続しているという感覚だ。

   つまり壺と空間はほとんど同質のものに見える。

   粒立つ空気の摩擦によるものか、画面は内側からほのかな熱と光を発して適度な温かみをたたえている。

   そのまま包みこまれてしまいそうな、快適な深みをもつ空間が生まれている。こんな絵に接するのは初めてという気がする。

 

 東京神田の画廊で先月開かれた早川俊二展に、そんな作品が何点か並んだ。さほど広くはないが清潔な印象の画廊の壁面で、絵は周囲の空気とひそかに通じあいながら静かに燃焼していた。

 様式を主張するのでも、描かれるものを強調するのでもない、もっと自然で柔らかな吸引力にみちた画面だ。

作者が多分そうしたようにじっと空間を凝視する。彼の視線は壺と周囲の空間に等分に注がれている。

 空間があり、そこにものがあるというのは不思議だ。その不思議のなかに人は生かされ、ものとかかわりながら空間を呼吸している。

 そんな不思議に向かって彼は描く。無としての空間ではない、ものを存在させ、人を生かし、すべてを燃えたたせる実体としての空間を、手に触れるもののように描いているのだ。

 

「夢中で風景を描いていた高校生のころ、一つの空間体験がありました。通学途中の切り通しで、向こうに見える村と今ここにいる自分との位置関係が、ある時わかった。視線が向こうまで行ってまた帰ってくる、その間の距離がはっきりつかめて自分の位置が見えたんです。生きていることを実感したともいえる。そういう生きた空間を描きたい。絵は描写することではない、単なる様式やモチーフでもないわけです、僕には。アメリカ流の現代の美術では空間なんてものに興味を持つ人はいません。面白いものはあるけれど長続きしない。現代はすごいスピードで空間が飛び去る時代ですが、人は歩く速度でしか思考できないんです。人の目でとらえられる速度というものがある。そこに立った行き方しか、なかったということですね僕には」

 

 切り通しの体験で、高校生は存在の不思議、空間という不思議に目ざめた。それを観念ではなく実在として描こうとしてきたのが、早川俊二の軌跡だったともいえる。

 その作業にすべての意識を集中させる。最小限の筆で最大限の表現をめざす。無駄をそぎ、生活を簡素化し、少しずつ求める空間の充実をはかってきた。   

 パリに渡り、西欧美術の深さと厚みに打ちのめされて再出発を決意したのは二十四歳の時だった。そのままパリに住みつき、二十代はデッサンに、三十代は絵の具の製作研究に費やした。ようやく自分なりの油彩が生まれ始めるのは四十代以降である。このおそるべき自分流の速度、その自意識と距離感に、現代の自立した精神のかたちを見る思いがするのだ。

     

編集委員 

読売新聞・日曜版 1997年(平成9年)12月7日 掲載

 

早川俊二 1950年長野県生まれ。74年渡仏。彫刻家マルセル・ジリに師事。 81年まで国立美術学校に在学。日本ではアスクエア神田ギヤラリー(神田錦町1の8)での個展を中心に活動。パリ在住。


『日経新聞』1999年2月5日

徹底した凝視、生をも描写 「早川俊二展」    竹田 博志

 

 見ることの不思議、そして、そういう絵を作る画人の不思議をしみじみ思う仕事に出合った。画家、早川俊二の作品は、決して大きくはない。今回の個展には十六点を並べているが、四十号が最大で、大半が十号以下である。しかし、その画面から響いてくるものは、絵の大小を超えて、深々とした余韻を保ちながら力強い。不思議の秘密のひとつは、マチエールにある。何か、ルネサンス期のフレスコ画のような絵肌が分厚くつくられた上に、油彩が施されている。

 女性を描いた人物画が六点。細やかなタッチの丹念な積み重ねが生んだ画面はヽあやしい生気を潜ませている。確かなデッサン力に裏打ちされた造形である。ほかに、使い込んで少し錆(さ)びのきた油差しや工具が描いてある。古ぼけてはいるが人の手に長くなじんで働いてきたものの質感までが、徹底した凝視の果ての描写でとらえられている。あとはカリンやリンゴなどのくだもの、茶わんと貝を描いた静物・・・・。

 画廊の入口のところに「すずめ」という作品が掛かっていた。一羽のスズメが大地に立っている。『抜け雀』という噺(はなし)を思い出した。五代目の古今亭志ん生が得意にしていた噺で、浪々の画家が家賃のカタについ立てに描いたスズメが、画面を抜け出して出たり入ったりするという、いかにも落語らしい設定だった。

 たわいがないといえばそれまでだが、江戸の人たちは、「生き写し」の、神妙の出来の絵をそう言い表したのだ。早川のスズメも、なにかそんな予感をはらんでいるように思う。ひとつの命をみつめ、筆端にそれを語らせる力があるということである。

 1950年生まれのこの画家は、東京で美術を学んだ後、74年から渡仏。パリの国立美術学校で5年間を過ごし、いまもパリに住む。聞けばこれらの絵の下地作りだけに十を超える工程を要するというが、そんなことよりも何よりも、結果としての絵面(えづら)が説得力を持っている。「早川俊二展」は、六日まで、東京・神田錦町のアスクエア神田ギャラリーで。

 

編集委員 

日本経済新聞  1999年(平成11年)2月5日掲載


『日経新聞』2000年02月02日

平面に「刻む」イメージ  「早川俊二展」   竹田 博志

 

 強靭な独自のマチエール(絵肌)に、精妙な写実の詩を刻む画家、早川俊二が、二十二点の作品を携えパリから一年ぶりに戻ってきた。一貫して追求し続けている女性の肖像画「クレマンス」のシリーズを中心に蕪(かぶ)、リンゴなどのほかスズメの絵も四点ある。

 今回注目したのは唯一の大作「女性の像(クレマンスX)」である。徹底した凝視から生まれる写実の鑿(のみ)が、これまで以上に自在に振るわれて、画面が軽い浮揚感を帯びている風だ。人のフォルムも鋭くそがれ、あのジャコメッティの彫像へと想いがつながっていく。

 全体に画面が少し明るくなった。一個の蕪、一個のリンゴが、その空間の支配者然としてそこにある。独特の描法が効果を上げていると思う。早川の仕事を、平面でありながら「刻む」といったのは、タッチの息詰まるようなせめぎ合いによって己のイメージを固定してゆくその手際が、画面の中に理もれている物を彫り起こしているようにも見えるからである。

 あの、夏目漱石の「夢十夜」の中の第六夜の場面、運慶が仁王像を刻む話。「あれは眉(まみえ)や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、鑿と槌(つち)の力で掘り出すまでだ・・・・・」。芸術の蘊奥(うんおう)を突いた言葉として忘れ難いが、早川は彫刻でなく絵画という平面でそれを試みている気がする。

 パリの国立美術学校時代から積み重ねた鉛筆によるデッサンに、この画家の原点と油彩の秘密が隠されている。今回は出ていないが、百号もあろうかという巨大な画面に鉛筆で描かれたモノクロの人物像が、震えるような空気の中で息づいていた。早川は、このデッサンで築いた世界を油彩でも具現したいのだ。そのために彼は、独自の絵の具作りから始め、「二十年もかかってようやく、理想に近い絵の具ができた」という。同展は二十六日まで、東京・神田錦町のアスクエア神田ギャラリーで開催。

 

編集委員 

日本経済新聞 2000年(平成12年)2月2日掲載