早川俊二 メディアの記録 2004~2009年

『日経新聞』2004年2月25日

熟視の末の写実に深み 「早川俊二展」   竹田 博志

  

 画家、早川俊二がほぼ二年半ぶりの個展を、東京・神田錦町のアスクエア神田ギャラリーで開いている(三月十三日まで)。絵を描き切るとはどういうことなのか。画家は絵筆を一体どこの夕イミングでおくのか――二十六点の新作を見ながらそんなことを思った。

 今回は、一群の最近作と従来風の作品が好一対の対照を見せているのだ。例えば、コーヒー挽きを描いた二点を比べると、近作の方がものの形が一見するとおぼろげに見える。追求の絵筆を途中でおいたようにさえ感じる。

ところがその分、ひたすらリアルに描き切ったこれまでのものより、見る者の視線を誘い、吸い込むような深度が画面にあるように思う。写実に徹した果ての新境地であろうか。

 早川の描く対象は身近なものばかりだ。機械油差しや貝、リンゴや梨。あるいは女性像やすずめなど、長い間の熟視の末、なじんでしっかりとまぶたに刻まれたものを、丹念な描写力で再現する。独特の下地を施した上に繊細なタッチで塗り重ねられた作品は、透明感のある独特のマチエール(絵肌)とともに強い説得力を持っている。

 早川は三十年前に渡仏、パリの国立美術学校でデッサンからやり直し、学ぶこと四年。その後、油彩画に取りかかったが、どうしてもフェルメールやレンブラントなど西洋の巨匠たちのような画面の質感が出せないことから、独自の油絵の具作りの研究を始めた。四半世紀近くを経た今、初めてその画面を見た人から「これは陶板に描いているのですか?」と問われるほど堅牢で重厚な絵肌の創出に成功した。

「これからです。ようやく山の登り口にたどり着いた」と控えめに語る早川だが、厄介で執拗な自己批評家を、自分の中に同居させていることは間違いない。

 

編集委員 

 日本経済新聞 2004年(平成16年)2月25日 掲載


『朝日新聞 夕刊』2004年3月10日

絵肌が生む存在の不思議 「高山辰雄展」と「早川俊二展」    田中 三蔵

 

 火星にかつて水が存在していたことが科学的に解明される時代になっても、ものが存在することの神秘性はいっこうに減じない。それどころか、神秘は一層増大し、しかもなぜか不安を伴って見えるようなっている、とはいえないだろうか。

 そんなことを思ったのは、「高山辰雄展」でのことだ。91歳でなお創作意欲盛んな日本画家の、70年に及ぶ画業を98点で振り返っている。宇宙や人間存在の神秘を語りかけてくる世界だ。

 初期作品、例えば美術学校の卒業制作だった「砂丘」は、清新で健康なモダニズムの佳作である。日本画近代化の一里程標だが、ドラマはそれ以後。色彩感覚などでゴーギャンを吸収するといった模索を経て、モチーフである人間や風景がおぼろげに溶け合いだす。かつて確かに在って今は無いものへの追憶も誘う。存在の気配だけを描くといってもよく、それが不安感も生んでいる。

 そうした神秘感を生む基盤は実は、独自のマチエール(絵肌の質感)にあるだろう。高山から、かつて「日本画の岩絵の具は微粒子で、下に塗った色と上に塗った色の摩擦で発色する。光のけんかというか、それで生命感がでる」と聞いた。そんな絵の具の使い方が基礎にあるからこそ、存在の神秘は浮つかずに迫るのである。

 一例が「音」。重い空を背景とした白い雪山を描き、画面下方を孤独に歩く男の背中は寂しい。この白の絵の具は胡粉で、筆触を重ね、地の紙の素材感を生かす。山ひだを描写する線と、画家の腕の動き、すなわち心の動きが一体となって気韻を生じている。

この大家のマチエールの力を再確認していたら、別に油絵の堅固な画面に出合った。「早川俊二展」。50年生まれで、74年からパリに住む早川は、独自の絵の具・絵肌づくりの試行を重ねてきた。90年代から日本でも個展を開き、微細に描く女性像や静物が背景に溶け込む静かな画風に定評があった。

 今回も同様のモチーフによる26点の近作を並べるが、「機械油差し」に見るように作風は微妙に深化した。筆の省略の妙を知り、確固たる存在でありながら、空気と心理のいたずらによる幻影ではないかとも思わせるような存在の不思議が獲得された。それが古建築の壁面からはがし取ってきたような絵肌の奥から乱反射する光とともに、こちらに迫る。私たちはなぜ存在するのかと省察を迫り、まだ存在しうるのかという不安をもたらす光だ。

 

編集委員

朝日新聞(夕刊) 2004年(平成16年)3月10日 掲載


『ロータリーの友』2004年5月号

表紙を読む      芥川 喜好 

 

 絵というものの不思議について、しばしばお話ししてきたように思います。

 ひとことで言えば、平画というぺらぺらの二次元世界だからこそ、あらゆる空間表現が、現実も非現実も、想像も幻想も妄想も含めて可能になるという不思議です。

 ぺらぺらの平画が、人間の想像力にはたらきかけて、優に一つの世界、一つの宇宙に匹敵する空間を生み出す面白さ、と言いかえて、もいいでしょう。

 絵をどう見るかということは、そうした絵の空間に自分なりにどう入っていくかということと、ほとんど同義だとも言えます。

 早川俊二さんの絵画もまた、その意味で類のない空間体験をさせてくれる世界です。

 そこにあるのは、コーヒーミル、湯呑み、小さな壼、機械油差しといった、身の回りのものたちです。もう一つの系列は女性のいる空間です。

 たとえばコーヒーミルのある最新作。細かいタッチを重ねてつくられる堅固な絵肌の内側から、さわさわと粒子がささめくような空気がわいてきます。そのなかにゆっくり立ちあがるように、ものが姿をあらわします。

 ことさらそこに「在る」という形ではない。しっくりと空間とともにある、自然な形態です。むしろそれゆえに、存在することの不思議を、その玄妙な奥深さを、訴えかけてきます。

 擦れあう空気の内にはらまれるほのかな光と温かみが、この人の絵にはある。いつの間にかそこに入りこんで、一緒に絵の空気を呼吸している感覚になってくるのです。

 いい作品には必ずどこかに入り口がある、ということを改めて思います。そういう生きた空間を手に入れるために、三十年もの間、早川さんはパリで試行を重ねてきました。

 二十四歳で初めて渡欧したときは、古画の模写でもしようか、ぐらいの心づもりだったといいます。しかし、西欧絵画のもつ厚みと空間の深さに打ちのめされて、軽い気持ちはたちまち吹き飛んでしまいます。

 改めて美術学校に入り直し、二十代はデッサンに、三十代は自分自身の絵の具を製作することに没頭したのです。

 近代以降、日本における絵画は、欧米から流れこむ新しいスタイルを追って目まぐるしく様相を変える、お手軽な「モード」としてあったとも言えます。流行は商業主義とも結びついて、多くの画家を渦のなかに呑みこんでいった。死屍累々の観すらあります。

 パリにとどまったということは、つまり、そういう底の浅い世界を捨てて、もっと長い目で絵画の根元を見定める道を選びとったということでしょう。

 レンブラント、ファン・エイク、ミケランジェロらの歴史的作品を間近に見ながら、その高い精神性と、ものとしての確かな肉体性を、自分自身の目標に見据えてきた。長い年月をかけた絵の具の研究も、むろんそのためだったわけです。

 現代にあって、これほどの長い射程をもつ作家はまさに稀有というべきです。

 このところ自作絵の具の使い方にも習熟して、今年早々に開いた個展では、めざましい空間の深まりと空気の伸びやかさが見られました。画面全体に潤滑油が行き渡り、画格が一回り大きくなりました。

 ・・・飛躍の予感がするのです。

 

読売新聞編集委員

ロータリーの友 2004年(平成16年)5月号 VOL.52  NO.5 掲載


『日経新聞』2006年4月21日

透明感増し清々しく 「早川俊二展」              竹田 博志

 

 パリ在住の画家、早川俊二が二十九日まで、東京・神田錦町のアスクエア神田ギャラリーで二年ぶりの新作展を開いている。人物画や静物画で合わせて二十八点。

 自分で開発したフレスコとテンペラを融合したような堅牢な絵肌に、ペインティングナイフを駆使して濃密な写実の世界を創り上げている。透明で繊細な表現が可能な独特の絵肌だ。

 最も大きい作品は横が二㍍近い「風景へ・2006-Josette」。横たわる女性を描いている。ナイフによる緻密なタッチの積み重ねが、肉の重みと同時に、息づく女体のしなやかさを鮮やかに描き出している。

 見渡してみて、画面が前回展より透明感を増し清々しくなった。聞くと、長い間使ってきた絵肌作りの素材が突然製造中止になってしまったのだという。制作はそこで一旦、頓挫したが、別の素材を見つけて試みに使ったところ、かえって調子がよくなったのだそうだ。そのせいか、カップやコーヒーポット、貝などが、清新な空気の中で澄明な詩をうたっている。これが、早川流の「空気遠近法」なのだろうか。

 レオナルド・ダ・ヴィンチが「モナ・リザ」を描くのに用いたという、「スフマート」なる技法がどんなものかずっと気になっていたが、今回の早川の仕事にいささか、そのヒントになりそうなものを感じた。

 「スフマート」とは物の輪郭線をなだらかにぼかして描く空気遠近法のこと。「優れた人物画は、レオナルドにしろフェルメールにしろ、輪郭線は線描ではなく、ぼかして描かれている」と早川は言っている。  

 

編集委員

日本経済新聞 2006年(平成18年)4月21日 掲載


『US新聞ドットコム-Kuniのウインディ・シティへの手紙』2009年3月

パリ在住の画家、早川俊二氏、3年間の沈黙を破る

~新作個展「アスクエア神田 ギャラリー」(東京)にて開催中       馬場 邦子

                                    

 

・・・・・早春の強風が吹いた3月、待ち望む春の季節を感じさせるようなみずみずしい空気が、真っ白い壁に囲まれた東京、神田の画廊に流れていた。・・・・・

 冬の寒さの残る神田小川町交差点近くのビジネス街。突風を背に、パリ在住画家、早川俊二氏が3年ぶりに発表する新作の個展会場に、急ぎ足で向かう。何の変哲もない古びたビルの小さな入り口に、「早川俊二展 アスクエア神田ギャラリー」と小さく掲げられた表示。ややもすると、通り過ぎてしまいそうになる。周りは雑多な喧騒の世界で、人々はせわしなく動いている。

 まるで、そんな世の中から身を隠すかのように、こじんまりした地味な画廊がある。しかし、その画廊の扉を押すと、そこには静謐な異空間が広がっていた。この画廊に来るのは、7年ぶりだろうか。だが、あたかも時間がそこだけ止まっていたかのように、温かい普遍的な時間が流れている。それは、今も昔も変わらない。

 そこには、一旦見たら磁石のように引き込まれ、離れがたくなるほどの吸引力を持つ魅惑の絵画群が広がっている。ときには、ぼんやりとした視界の中、私たちはその絵画たちとひそやかに会話する。静かに、静かに自分自身の内なる声に心を傾けながら、絵の発する穏やかなエネルギーと呼応し合う。何にも邪魔されず、その絵の中にすっと入っていく自分を知り、かすかな誇りと優越感に浸る。突然、天から降ってきたかのように、「ああ、絵と一体化している」という不思議な感覚に襲われる瞬間。そして、言いようのない充足感が、心の隅々にじわじわと広がる。その心地よい高揚感に体中が包まれたとき、生きていると実感する。これが、私の感覚がとらえている早川俊二という画家が生み出す芸術の世界だ。このように、ある種自分の精神を解放してくれる絵には、なかなかお目にかかれないものだ。

 

 今回の個展の前期パート1(4月8日まで)は大作6点を発表。2007年から今年にかけて、早川氏が全精力を傾けて、世に出た珠玉の作品の数々。(静物画の小品も同じ時期に21点ほど描かれ、4月14日から始まる後期パート2で発表)すべて柔らかな女性の人物画で、その小さなギャラリー空間は占められている。入り口から入るとすぐ正面に、寝ている女性の絵が2つ並んでいる。左手の「まどろむAmelyー1」(2008)の中の女性のまどろみが静かに伝わってく る。女性のいる空間が浮揚しているようにも見える。はっと息を飲むような淡い色彩が、私たちの姿まで包み込んでしまいそうだ。そんなたおやかな魅力に満ちた作品。水色を基調とした白と茶が入り混じった繊細な背景で、視覚がゆらゆら揺れながら、はるかかなたの別次元に観ている者をいざなう。この絵があれば、ずっとそこにたたずんでいられる。右手の「まどろむAmely―2」(2008)のアメリーの手前半分の表情は、左側の作品のアメリーよりややはっきりしているが、体全体はかすんでいる。その代わり、荒いタッチの線が表面に斜めに入っている。穏やかさの中に、ほどよい緊張感が漂う。

 

 ギャラリーの左手奥に進むと、この個展のために早川氏が最初に製作を始めた作品、「風景へー1(Josette)ー2007」(2007ー09)が、茶色の基調の大画面で、いきなり私たちを圧倒する。今まで抱いていた早川氏のみずみずしいイメージの人物画とは、対照的だ。女性の茶色の服は、タイルを並べたような荒々しいタッチがそのまま残されている。この作品は、早川氏は背景を仕上げるのに迷いながら、一旦筆を置き、後に述べる2作を仕上げてから、再び背景を仕上げたという。その作品の横にある「風景へー2(Josette)ー2007」 (2007ー09)の女性の表情が、今回の大作展6点の中で一番はっきりしているかもしれない。背景の緑と水色、そして女性のピンクがかった茶色の色合が絶妙に配置され、見る者に安堵感を与える。素直に美しいと感じられ、女性の周りから発する不思議な光のせいか、ある種宗教画にも通じる崇高さをたたえている。2つの作品とも人物しか描かれていないが、壮大な宇宙空間に浮遊し、すべての物が連続してつながっているような感覚を覚え、「風景へ」というタイトルに納得する。

 そして、本来の早川氏のイメージに立ち返った明るい水色の色彩で彩られた「女性の像ー1(Clemence)ー2007」。女性の体の左半分の描写は、背景の色と交じり合いながら、次第に溶けて透明感を増していく。そのせいか、頬や髪の毛、そして腕の線が揺らめきながら、じょじょに絵画から抜け出してくるかのようだ。幻想の中に身を浸し、埋没する。これは絵なのだろうか。女性の周りの空気までも描いているため、そのような錯覚が起こるのか。私たちの感性がこの絵と一体となったとき、精神が心底洗われたような気分に陥り、頭の中でその感覚はぐるぐる回って、いっときこびりついて離れない。初めて早川氏の個展を見に行った友人の1人は、その夜、何年かぶりに眠れなかったほどの興奮と高揚感に包まれたという。これだから、早川絵画はやみつきになる。最後に紹介する6点目の「女性の像ー2(Clemence)ー2008」は、「女性の像ー1」よりも色は落ち着いていて、女性が気品に満ちている。

 

 このように、早川絵画の特徴は、さほど多くの種類の色彩を使わず、早川氏が長い間練り上げ、創り出した独自の油絵の具で、幾重にも塗り込められた分厚いマチュエールによって、人物や静物の存在感を映し出す。コットンの生地を3枚貼って、地塗りを徹底的にほどこし、厚くなった独特のキャンバスの周りは、削られたように、わざとそのままの状態をむき出しにしている。早川氏によると、その部分も絵の一部だというから、その無骨さが、繊細な色彩や空間表現と対照的で面白い。そして、意外なのは、ほとんどの作品を筆でなく、ペインティングナイフで描いていることだ。「筆で塗っただけでは薄すぎてつまらない。絵の具の現実感が伝わってこないので、ナイフを使うようになった。レンブラントも(ペインティングナイフを)巧みに使っている」と語る。卓越したデッサン力と色彩感覚、そして、巧みな空間表現。早川氏の稀にみる芸術に対する純粋で真摯な追求力がなせる技なのか。「内なる光」を持つ作品と美術史家、佐藤よりこ氏は批評した。評論家たちが絶賛する早川絵画の世界とは、いったいどのようにしてできたのであろうか。

 

 1950年長野生まれの早川氏は、今年59歳。渡仏したのは、1974年で24歳のときだ。以来35年間、あらゆる商業主義的なものから距離を置いて、西洋美術の巨匠に囲まれたパリで、黙々と自分自身の芸術に精進し続けている。若き早川氏は、1973年東京の創形美術学校を卒業して、結子氏と結婚して、すぐパリに渡り、パリ国立美術学校で、彫刻の教授であるマルセル・ジリ氏の下で、1976年から1981年の間、基本にもどり、デッサンの勉強をした。西欧美術の巨匠作品と対峙しながら、黙々とデッサンに励んだ早川氏。これが、早川絵画の核となる。早川氏にとって、「絵を描くというのは、技術が90%、表現力はほんのわずか。しかし、20世紀絵画は、表現が拡大しすぎていて、なんとつまらない主張をしているか・・・とくにアメリカ美術は、虚構の世界だった。金額を上げて、華々しくやっているが、内容は貧弱。未来を見据えて、自分とは何かを問うというより、瞬間を楽しむっていう感じだった。」 そんな20世紀絵画に疑問を持ったとき、ヨーロッパの古典絵画に触発されながら、白黒のデッサンの基本的な世界に色が見えてきたという。「白から黒へのグレーのニュアンスがすごく、やればやるほど、すごい宇宙がでてくる。それがデッサンの世界・・・それが、墨絵だし、ミケランジェロの晩年のデッサンだ。」と絵画にとってのデッサンの重要さを語る。

 

 1983年、パリにてデッサンと油絵の初個展を2回行う。大成功を収め、10以上の画廊から誘いがあったが、商業的なものを感じ、あえて断わる。「このとき有頂天になっていたら、現在の僕はなかった。商売の世界は創造の世界からどんどん遠ざかっていくという恐怖感があって、断った。」とそのときのことを振り返る。1984年、グループ展として、 FIACに出展するが、絵の具の研究の必要性から出展活動を止める。その後、30代からは、20年以上もの長い月日を絵の具の製作研究に費やす。気の遠くなるような時間だ。

 

 1987年、37歳ごろ、当時松坂屋の画廊で働いていた、伊藤厚美氏にパリで出会う。早川氏のデッサンを見て、強い衝撃を受ける。1987年といえば、バブルの創成期。伊藤氏が見た当時の早川氏のパリのアトリエというのは、古い建物の中にある「ほったて小屋」のような感じだったという。「商業主義の真っ只中にいた世界から(私が)きて、見た彼の存在にものすごいギャップがあった・・・日々(デパートの画廊で)接している絵とは違う。芸術に対する思いが違う。これはデパートで扱うのはやめたほうがいい。」と直感し、早川氏が納得する作品ができ、日本での初個展を開くまで、5年間も辛抱強く待っていた。「早川俊二との出会いは、その後の私の人生を大きく変えた。」と伊藤氏は、ギャラリーのホームページに告白している。

 

 1992年、42歳のときに、「アスクエア人形町ギャラリー」(後に「アスクエア神田ギャラリー」として移転)で初個展。このとき、私はジャパン・タイムズのアート・レビューの取材で、初めて早川氏に出会う。当時、まだ日本では無名で、純粋に自分の芸術を磨いている若き修行僧のような印象だった。その時のジャパン・タイムズの私の記事を振り返ると、「In search of the universality of beauty」(「美の普遍性を求めて」)という見出しで (1992年12月6日付)、「右向きのアトランティック」というテンペラとアクリル絵の具の混合技法を用いた、さほど大きくない一枚の少女の絵を紹介している。「私は、美の普遍性を求めたい。それは、我々が実在としてつかむことができない神のようなものだ。」と語る早川氏の言葉で記事は始まっている。早川氏の幾度も塗り込められたであろう分厚い絵肌の中で、「アトランティック」という少女の存在感は、白黒の新聞の紙面で、あたかも彫刻のように浮き出ていた。その吸引力はそれまで味わったことのないほど強いもので、だからこそ、どうしても記事にしたかったのだ。そのときの早川氏の黒目がちの大きな目が、彼の芸術に対する純粋さを映しだしていた。

 

 その後、1997年に「アスクエア神田ギャラリー」の個展で発表した「アフリカの壷」という作品が、読売新聞の日曜版の第一面の芥川喜好氏による「絵は風景」という人気コーナーで、1ページにわたってカラーで大きく取り上げられ、日経新聞や朝日新聞などでも個展がたびたび紹介されるようになり、一般のアート愛好家にも早川氏の存在が知られるようになる。芥川氏は、そのときの記事で、「自然で柔らか 空間の不思議」と題して、その絵をこう表現している。「さわさわと、空気の粒子が手に触れんばかりに粒立って視界を侵している。そのなかに影のように壷はあらわれる。むしろ、空気の粒子がそこだけ壷のかたちに凝集して周囲と連続しているという感覚だ。つまり壷と空間はほとんど同質のものに見える。粒立つ空気の摩擦によるものか、画面は内側からほのかな熱と光を発して適度な温かみをたたえている。そのまま包みこまれてしまいそうな、快適な深みをもつ空間が生まれている。こんな絵に接するのは初めてという気がする。」(1997年12月7日付読売新聞日曜版より)「さほど広くはないが清 潔な印象の画廊の壁面で、絵は周囲の空気とひそかに通じあいながら静かに燃焼していた。様式を主張するのでも、描かれるものを強調するのでもない、もっと自然で柔らかな吸引力にみちた画面だ。」と芥川氏は続く。

 

 2006年の最後の個展から今回の個展まで3年もの月日が必要だったのは、その絵の具の改良にまたしても時間がかかったからだという。早川氏は、大きな壁にぶつかりながら、この20年間の絵の具の技術研究を1年間かけて、もう1回やり直してみた。「そうしたら、20年間かかえていた問題が半分解決でき、今までで一番躍進した。(絵を)見た人は、より自由になって、(今までより)絵の中にすっと入れる感じ。エネルギーを発散してくるような感じに見えるのではないか。」と期待している。その結果、「今までより、透明感が増している。」と伊藤氏は強調する。

 

 早川氏の絵描きとしての原点は、中3のときに出会ったセザンヌの画集。以来、この道をめざしてまっしぐらだったという。「セザンヌは、絵の中に人を引き込んでくれる。あなたはこう見ろと人に押し付けない。森に行って草木に触れたり、それらが目にはいってくると、気持良くなる。あれと同じ感覚で絵を観れる。自分の絵のあるべき姿も同じだと思う。」と強調する。好きな作家や作品は、セザンヌ以外に、ジャコメッティ、レンブラントの晩年の作品、フェルメール、ミケランジェロの晩年のデッサンや彫刻、ピエロ・デラ・フランチェスカ、 ファン・エイク、中国の南宋画、日本人では、長谷川等伯の「松林図屏風」、雪舟など。ポンペイの壁画やラスコーやアルタミラの洞窟壁画も好きで、観に行きたいという。普段は、いつもベートーベン、バッハ、ブラームスなどのクラシックの巨匠の音楽を聞きながら、絵を描く。

 

 独特の空間表現について、「物の存在を認知するのが光。光の粒子をとらえることによって、光の位置を絵の中に定着していくと空間ができてくる。(たとえば、)茶碗が占めている空間を自分の中でとらえられれば、自分の存在している宇宙がとらえられるのではないか。セザンヌに出会ったとき、そのことを感じたんだと思う。」と早川氏は語る。「今後、どんな絵画をめざしていくのか」という質問に、早川氏は、「言葉で自分のめざす絵画を語るのはむずかしい。」と前置きしながら、「自己主張でない、自立した絵画を創っていきたい」と語る。早川氏の話の中で幾たびもでてくるセザンヌが残したような絵画のことだ。具体的に早川氏がめざす自立した絵画とは、何か。「植物の種をまいて、芽がでて、地上にでて、花が咲き、しぼむ・・・そんな自然のいとなみの世界や私たち人間の一生のような絵画をめざしていきたい。」と語る。「神の創造を模倣するような、それに近い感じ」と語る。早川氏が描いた「人物や茶碗をかりて、一つの絵画でそういう世界ができればいい。」という。そして、冒頭で早川絵画に対して感じた私の印象の紹介と同じように、「(観る側が)絵に入ってくれて、自分の心と絵で対話してくれればいい。」 早川氏のめざしている絵画とは、そういう意味で、すでに多くの私たちファンの心に届いている。だが、「その衝撃や感動をもっともっと大きなものにしていきたい。」という。根底には、早川氏の絵を通して、「生きていることが貴重で素晴らしい。」というメッセージを伝えたいのだが、「それは観る側の感性でさまざまに感じてほしい。」という。

 そんな早川氏の普段の生活を聞くと、朝型人間で質素な生活を心がけている。毎日、明け方の3時から4時ごろから7時ぐらいまでが一番集中して作品にとりくむことができるという。ときには2時ぐらいから始めるという。絵描きとしての早川氏を生活面や精神面で長年ささえ続けてきた妻、結子氏と2人で菜食主義を貫き、無駄なものをすべてそぎ落として、芸術家としてまい進する日々。最初に早川俊二の才能を見出した結子氏という存在がなければ、この稀有な早川絵画の世界は開花されなかっただろう。

 

 早川氏は、「今こそ基本にもどって、天然資源や自然を大事にする日本文化や日本人の感性をもっと自信を持って世界に訴えていくべきだ。」と言う。この100年に一度の経済危機と言われる現代の日本で、日本人が忘れてしまっていた大事なものがすべて見直されている中、早川氏の絵画、そして生き方は、私たちの心をとらえて離さないであろう。そして、いつの日か、巨匠と呼ばれる日がくるのを予感させるような画家、それが早川俊二と強調して、この記事を締めくくりたい。

                            

早川俊二展 PART I   大作展 3月24日(火)~4月8日(水)

      PART II  小品展 4月14日(火)~5月2日(土)

会場: アスクエア神田ギャラリー

〒101-0054 東京都千代田区神田錦町1の8 伊藤ビルB1 (本郷通り)

TEL: 03-3219-7373 FAX: 03-3219-7375

E-mail: kanda-gallery@asquare.jp

 

英語講師・ライター

「US新聞」2009年3月掲載


『日経新聞』2009年4月3日

基盤のグレーに清新の気 「早川俊二展 Part 1」   竹田 博志

 

『幼い頃ぼくは、米を研ぎながら鼻歌を唄っている母に尋ねた。そんなにいつも同じことばかりしてどこが面白いの?母は笑いながら言った。やっていることは同じことに違いないが、米を研ぐ感じは同じではない。水の冷たさで気持ちが引き締まるときもあれば、鳥の鳴き声で調子がつくこともある。(中略)どちらにしても私はこの米研ぎの繰り返しの中で生きなければならないからね』

 やや長い引用になったが、これは画家の李禹煥の文章の一部である。美しく含蓄に富む見事な言説だと思う。それで何が言いたいのかといえば、画家という人たちも毎日、絵筆を振るっているが、「どこが面白いの?」と聞いてみたくなる時がある。同じようなことの繰り返しの中に何があるのか。

 洋画家、早川俊二が三十二点の新作とともにパリから帰ってきた。一見すると作品のたたずまいは変わっていないように見える。しかし、じっと絵と向き合っているうちに、これまでとは違った清新の気を感じた。この画家も毎日、絵の具を練り、ナイフで画面に塗り込み、削るということを繰り返しているに違いない。その明け暮れの中に言い知れぬ創作の歓喜、妙味が潜む。村上華岳の言う「密室の祈り」のような厳粛なものが。

 聞くと、それまで二十年間も使っていたジンク・ホワイトの絵の具を昨年、他のメーカーのものに変えてみたら俄然、透明感のあるグレーが得られたのだという。「私の作品の基盤になっている色はグレー。思い通りのグレーがようやく出せるようになった」と画家は屈託がない。

 「早川俊二展 Part 1」は、東京・神田錦町のアスクエア神田ギャラリーで八日まで。人物画の大作六点の展示。「Part 2」は静物画二十六点を十四日から五月二日まで展示する。

 

編集委員 

日本経済新聞 2009年(平成21年)4月3日 掲載


『読売新聞』2009年4月25日

「時の余白に」  群れを遠く離れて      芥川 喜好

  

 前回書いた筧次郎さんの「自立した百姓暮らし」には、読者からさまざまな共感の声が寄せられました。

「物にまみれた生活を反省した」「農の大切さを改めて考えさせられた」「変わらなくても生きていける生活、本当にそう思う」等々。

 直ちに同様の行動はとれなくても、複雑化した時代のなかで生活を簡素にしたい、単純な原理によって生きたい、そのためのヒントを得たい、と願っている人は少なからずいるということでしょう。

 筧さんは学者の道から百姓暮らしに飛びこんだ方です。農作業の経験はなかった。そこから始めて少しずつ体の動かし方を体得し、畝立ても畦塗りも当初の倍以上の速さでできるようになります。

 自立した生のために当然引き受けなければならない肉体仕事がある。それを苦痛と感じない体をつくること、自らを鍛えること、と筧さんは言っています。そうした自己修練、自己教育こそ自立への通のりです。

 筧さんはまた「他者を打ち負かして苦しめなければ得られない発展など、ない方がいい」「競争は人間の宿命ではない」とも言っています。

他の誰のものでもない、自分自身の一回限りの生です。「より良く」生きるには、実際、人との競争にかまけている暇などないのかもしれません。

 

 当方もまた、世のなか競争とも勝負とも思わないし、そういう風にも生きてきませんでしたから、担当する美術の分野でも自分なりの確かな行き方をしている作家に目が行きます。流れに乗じて群れる人々は視界から没して行きました。

 団塊、などと不本意にも呼ばれてきた年代です。残り時間を考えれば、真率な構えでひとり自分のなすべきことに向き合ってきた人の仕事こそ、つきあうに足る。それが実感です。

 この春、久しぶりに早川俊二さん(59)の世界に浸りました。パリに住み、2、3年ごとに日本で個展を開いて、そのつど深化する画面がファンを瞠目させてきた独立独歩の油彩家です。97年12月の日曜版で紹介したことがあります。

 その3年ぶりの発表があり、一貫して手がけてきた人物と静物をモチーフとする空間が、ある確かな達成感のうちに輝き出しています(5月2日まで、東京・神田錦町のアスクエア神田ギャラリーで)。ここは文字のコラムで申し訳ないのですが、少し想像の羽を広げていただきましょうか。

 

 静穏な空間です。画家はペインティングナイフで丹念に絵の具を重ね、削り、そこに光と影の織りなす存在を浮かびあがらせていきます。それは横たわる女性像だったり、器や果物のある静物だったりします。見る者は、さわさわと粒だつ空気感のうちに、存在するもののざわめきと鎮まりを―震動を聞きとります。空間が生きている、と感じます。

 人間が、ものが、「在る」とは不思議です。早川さんの絵画は自明な形の描写ではありません。いま内から形が生まれている生成の場、在ることの不思議が不思議のままに描かれたひとつの宇宙です(うむ。画廊のホームページでご確認いただければ幸いです)。

 目に心地よいグレー、白、茶が基調の、どこか懐かしい空間です。モードを超えたところで「描くこと」の根に触れているこの絵画がどのように生まれてきたかが、実は肝心なのです。

 東京の美術学校に通い、24歳で渡欧した時は、古典を模写しながら今後を考えようぐらいのつもりだった。しかし実際に接した西洋美術の厚みと奥行きに青年は打ちのめされます。

 彼はどうしたか。踏みとどまり、国立美術学校に入り直してデッサンの修練で20代を過ごします。30代、絵の具を自分で作り始めます。技法書で組成を研究しながら、自分が使いやすく、求める抵抗感も気品もある絵の具を開発していきます。40代、ようやく自分なりの油彩が生まれ始めるのです。

 

 近代以降の百数十年、油彩を志した人が西洋画の歴史と伝統に直面してとった態度は、さまざまです。歴史への理解なしに新しいモードの部分だけを要領よく持ち帰った人もいる。西洋という壁の前に絶望した人もいる。どれも性急でした。

 早川さんは絶望もしなければ巧みにすり抜けもしなかった。現実を認識し、事態を受け止め、対策をとったのです。心中必ずしも平穏ではなかったでしょう。が、行動としてのこの冷静さは比類のないものです。

 自分のやりたいことがある。ならばそれに向かって自らを鍛え、時間に耐え、自分で立つしかないではないか。競争などではない、自分自身がそうするのだ―と思ったかどうか。いや、内心そうして自らを鼓舞し続けたに相違ないのです。

 ルーブルがある。それだけの理由で在住35年。玄米と野菜の食事を1日2回、制作と散歩が中心の簡素な日常です。「これから少し自分なりの方向へ飛べるかな、という気がしています」。この恐るべき射程の長さこそ、今の日本にはないものです。

 筧さんの場合と同様、強力な同志としての奥さんが日々を支えたことは、忘れずに申し添えなければなりません。

 

編集委員

読売新聞 2009年(平成21年)4月25日掲載

*この記事は「時の余白に」みすず書房(2012年5月10日発行)に収録されております*


『百華 第50号』新日本奨学会

早川俊二「壺と蕪」      山口 範雄

 

 上半身の婦人像、横たわる女、洋食器、巻貝、蕪―画題が限られている。

 灰色、濃淡のセピアー淡い有彩色を含む無彩色の抑揚など、抑制された色遣い。

 樹皮を想わせるようなざらついた表面― 一様なマチエールが独特である。

 テーマ、色彩、マチエール、いずれをとっても、ストイックな画面から、観る者に伝わってくるものは、描かれているものの個性ではなく、それら対象物に共有されている何かである。

 

 女の顔は柔らかで美しいが、生気は感じられない。活動的な美しさではなく、静かに水中に沈潜していくような美しさである。然し冷たさは無い。

 静物は、輪郭が茫洋として定かではなく、グレイの背景から悠然と立ち上がってくる。

 女性像、静物ともに背景の色調、マチエールは、画家独特の技法によって生み出されている。

 固有の色彩とマチエールを創り出す為に、長い年月に亘る試行錯誤の積み重ねがあったと云う。

 私は初めてその質感を観た時、樹皮に何らかの加工が施されているように感じた。

 粗い肌理の凹凸が、堅牢ながら温もりのある自然の息吹を帯びている。

 この背景と描かれている対象が、微妙に呼気と吸気を交換している。

 

 一点、 陶器(壷)と蕪の絵が我が居間に掛けてある。

 春の朝陽が射し込む時、秋の暮れなずむ時、どんよりと寒空の時、壷も、蕪も、微妙にその表情を変える。

 陽光、地球、大気、陶、菘―それらが凝縮した宙(そら)をタプローの中に表出させる。グレイのマチエールがディレクター役を果たしている。

 画家は、陶器と蕪をグレイの場(それは宇宙物理学が見出した重力子溢れる「ヒッグスの場」の表現のように見えないこともない)に置いて、「宇宙の静謐」を描出しようとしているのではないか。

 この画家の作品では、描かれている対象と背景の量的配分が、通常の作品とは異なる。背景の面積、ウェイトが大きい。それだけ背景部分が枢要な要素だからである。

 女、静物、果実 野菜を描くことが画家の目的ではなく、それらのモノとモノが置かれている「場」との相互作用の中に垣間見られる「宇宙の静謐」の定着こそ、画家の狙いなのではないか。

 

味の素株式会社取締役会長

新日本奨学会「百華」第50号(続・絵画逍遥掲載)