早川俊二 メディアの記録 2015、2016年

『信濃毎日新聞』5月29日

故郷初個展 友が架け橋 長野 パリ在住画家・早川さん 来月開催へ同級生ら奔走

「家族に活躍する姿見せたい」         丸山 祥子

 

 長野市七二会地区出身で、パリ在住の画家、早川俊二さん(65)の個展が6月4日から、市内で初めて開かれる。1974(昭和49年)年に移住し、日本国内では東京を中心に個展を開いてきた。「故郷の家族にも活躍を見てほしい」と、高校時代までの同級生らが開催に向けて奔走している。

 早川さんは、中条高校(現長野西高校中条校)卒業後、東京の美術専門学校に進んだ。美術を勉強するために、24歳の時パリに行った。個展は早川さんが通った七二会小学校、七二会中学校、中条高校の同級生で、七二会地区に住む会社社長の宮澤栄一さん(66)が発案した。

 宮澤さんは2010年夏、同地区で一人で暮らす早川さんの母、徳女さん(93)と話す機会があり、早川さんが子どものころから画家になる夢を抱いていた事を聞いた。「画家として立派になった姿を見れば徳女さんもうれしいだろう」と、ほかの同級生にも声をかけ、11年に実行委員会を発足させた。

 個展には、早川さんの作品を運搬する費用や会場費などで約1千万円が必要と見込まれる。このため実行委は一口千円の協賛金を募り、早川さんの作品を使ったカレンダーやポストカードなども販売。今月下旬までに450人の個人・団体が支援を寄せ、開催のめどがついた。

 個展では、陶器や貝などの静物、女性を描いた油絵を中心に63点を展示する。早川さんは帰国し、26日から長野市の実家に滞在している。期間中は会場を訪れる予定だ。

 早川さんは28日、取材に「感性の豊かな時期を過ごした長野での個展は特別な思いがあり、作品にどのような印象を持ってもらえるか楽しみ」と話した。

 宮澤さんは「鑑賞すると心が穏やかになる作品を大勢に見てほしい」としている。個展は6月4日~28日、長野市西後町の北野カルチュラルセンターで開催。大人500円、大学生以下無料。月曜休館。問い合わせは実行委事務局のブンゲイ印刷(☎026・268・0333)へ

 

信濃毎日新聞 2015年5月29日朝刊


『週刊長野新聞』6月6日

 「故郷で個展を」級友らが企画 七二会出身仏在住の画家 早川俊二さん   竹内 大介

 

 長野西高中条校(旧中条高)に5月28日、47年前の卒業生が訪れ、校友会に自作の油彩画を寄贈した。七二会に生まれ、仏・パリに住む画家・早川俊二さん(65)だ。贈呈式には、当時の級友5人が早川さん夫妻と共に顔をそろえた。

 級友たちは現在、実行委員会をつくり、早川さんの個展を長野市内で開いている。校友会への作品寄贈は、個展に合わせて計画した。

 早川さんは、中学3年の時に「絵描きになろう」と決意。1965(昭和40)年から3年間在学した中条高では、朝の授業前、昼休み、放課後に一人で美術室にこもり、黙々とデッサンの勉強に励んだ。級友の一人は「休み時間になると絵を描きに出ていってしまうから、教室に早川君がいた覚えがあまりない」と笑う。

 故郷での個展開催は、還暦を機に開いた同窓会で、小学校から高校まで同級生だった宮澤栄一さん(66)=七二会=が提案した。(早川さんの)お母さんの徳女さんが、生活が苦しい中で中学時代の早川君に絵の具を買い与え続けていたと後になって聞き、感動した。徳女さんが元気なうちに、長野で個展を開いてほしいと思った」

 実行委は3年ほど前に級友や恩師で組織。展覧会の開催費用を集めるため、協賛金を募り、早川さんの作品を刷り込んだカレンダーやはがきを販売してきた。これまでに約450人が協力。「長野地域だけでなく、全国から早川作品のファンが志を寄せてくれた」(宮澤さん)という。

 早川さんは「(美術のプロでない市民が企画する)こうした展覧会は、ほかに例がない。すごいことをしてもらった」と喜ぶ。校友会に寄贈した作品も実行委が借用し、開催中の展覧会で展示されている。

                            (記事と写真・竹内大介)

画家・早川俊二さん個展 28日まで

故郷で初開催 北野カルチュラルで   ストイックな創作姿勢に評価

 

七二会出身で仏・パリ在住の画家、早川俊二さん(65)の個展「早川俊二の世界 遥(はる)かな風景への旅」が6月28日日まで、西後町の北野カルチュラルセンターで開かれています。【関連記事1面に】

 

早川さんの個展が東京以外の国内で開かれるのは初めて。長野の後、札幌、新潟、酒田と巡回します。長野展は、早川さんが通った七二会中と中条高(現・長野西高中条高)の同級生と恩師らでつくる実行委員会が主催します。

展示するのは、油彩画を中心に63点。早川さん自身が約30年間研究を重ねてきた絵の具を使い、女性像や食器などと周囲の空間をペインティングナイフで描いた作品がメーンです。

実行委事務局長の宮沢栄一さん(66)=七二会=は「早川君の絵に、私は平和を感じる。心に響く優しさを多くの人に味わってほしい」と話しています。

入場料は一般500円、大学生以下は無料。時間は10時~18時(6日土・7日日は12時まで、13日土は14時まで)。月曜休館。

早川さんの作品を早くから紹介してきた読売新聞編集委員・芥川喜好さんの講演会「早川俊二作品の手前で(仮題)」が、13日土15時~16時半、会場で開かれます。要展覧会入場料。

ホームページ上から予約。

問実行委事務局(ブンゲイ印刷・宮沢)☎268・0333 「早川俊二展」で検索

 

「nina」2015年 油彩 キャンバス 65x54㎝

 

 早川俊二さんの絵画はどれも、食器などの静物や女性像をごつごつした独自の絵肌の中に描いた、静けさが漂う作品です。評論家や美術ライターから、確かなデッサン力と独自の技法、商業主義と一線を画した創作の姿勢などが評価されています。

 早川さんは中条高時代、東京の展覧会に出掛け、初めてセザンヌを見ました。描かれていたのは、遠くに山を望み、森のなかにたたずむ城を描いた風景。「近くの緑と遠くの緑の違い、物と物の距離感が、人間の意識を通して昇華されたものとして表現されている。衝撃だった」。山が連なる西山地域の風景が、「それまでとは違って見えるようになった」と言います。

 進学先の創形美術学校(東京)では、在学中ほとんど作品を残しませんでした。「商業と結びついたアメリカ美術がはんらんする中で、『現代性と絵画』について悩み続けていたから」です。

 同校を卒業後、24歳で渡仏。「模写をして帰国しよう」というつもりで渡った欧州で、本場の西洋美術の量と奥の深さにショックを受け、一から絵を学び直すことを決意します。

 20代は彫刻家の師の下でデッサンだけを繰り返す毎日を送り、30代は専門書をひもとき、自身が求める絵の具の研究に明け暮れました。完成作品を生み出すようになったのは、40歳ごろからです。

「絵は人間の役に立たなくてはいけないが、その方法論はまだ見えない。でも、物質文明が際どいところにきている今、人類の未来にとって大事なのは、大地や空気を汚してはいけない、という基本的なこと。そういうことを、絵で見せていかなければならない」

 早川さんの絵画の題は、「女性の像」「壺と蕪」など、描かれるものを即物的に表した言葉だけ。「(見る人に)タイトルからのイメージではなく、自分の目で絵そのものを見る体験をしてほしい」と話しています。

 

週刊長野 2015年6月6日掲載 


『信濃毎日新聞』6月12日 シリーズ「金曜アート」

創作の扉  画家 早川 俊二さん  像を結ぶ瞬間を巧みに    植草 学

 

 遠目には、すりガラス越しのようなやわらかい光と影。だが画面に近づいて見ると、おびただしい筆触で覆い尽くされた硬い岸壁のよう。遠さと近さ、やわらかさと硬さのはざまに、あたかも昔日の恋や忘れ去られた宝を思わせる女性や静物が像を結ぶー。

 早川俊二さんは、そんな情景を描く画家だ。長野市出身でフランス在住40年余り。叙情的な画風を醸し出す独自のマチエール(絵肌の感触)を写真や印刷で伝えることは難しいが、同市の北野カルチュラルセンターで28日まで60展余りが並ぶ個展が開かれており(月曜日は休み)、実物を目にすることができる。これに合わせて一時帰国した。

 「人物も静物にもモデルがありますが、それを写すのではなく作り上げるということが大切だと思っています。30年余り前から現在までの作品をこうして個展に並べてみると、描いた当時の悪戦苦闘が思い出されますよ」

 チューブに入った市販の絵の具は使わない。顔料と、それを練る油などの触媒を自分で選び抜き、組み合わせて絵の具を作ることから始める。「描く」というよりも、まさに「絵づくり」というべき制作だ。その発色や質感に魅せられる収集家も多い。

 画家を目指したのは中学3年制の時。たまたま書店で手に取った、フランスの画家ポール・セザンヌ(1839~1906年)の作品集を見て「そっくりに描いていない」と衝撃を受けたことがきっかけだと振り返る。

 「学校の授業では、そっくりに写すように教わるでしょう。セザンヌの作品は静物がゆがんでいたり、風景の奥行きが狂っていたりする。なのに、なぜか私の感覚にしっくりきたんです。こういう描き方も人の心を打つんだと、うれしくなりました」

 中条高校(現・長野西高校中条高)を経て東京の美術学校へ進んだ。卒業後、デザイン学校の講師をして働いたものの、さらなる絵画修業への志は止みがたくフランスへ。パリの国立美術学校で腕を磨き、学内賞も受けた。

 受賞記念の個展は好評。懇意の画廊もできた。だが「新作はできたか、という電話が画廊から月に2度も3度もかかってくる。せわしない欧州の美術界に驚かされました。そんなハイペースでは制作ができないのに、と」。

 ちょうど、チューブ絵の具では思うような絵作りができないことに悩み始めたころでもあった。目まぐるしい美術界と少し距離を置き、じっくりと絵の具を研究することから出直したという。

 冒頭で「筆触」と記者は書いたが、実は制作で多用するのは筆よりも画用ナイフだ。「私が自分で作る絵の具は硬いので、ナイフで盛ったり削ったりすることの方が多いんです」。描かれた女性や静物が、まるで岩壁から磨き出されたかのような絵柄にも見えるのは、そのためだ。

 絵画とは、要するに絵の具という物質にすぎない。なのに私たちは、それを女性や静物であるかのように見て取る。近くで見ると、絵の具の美が感じられる。遠のけば、そこに描かれた像の美に気づかされる。物質から像へ、像から物質へと姿を変える、その距離や瞬間を早川さんは巧みに描き出している。

 「これからの課題は風景画です。人物や静物のような立体と違い、風景は空間。それを、岩壁から磨き出した絵柄のように描けるか。挑戦していきたいと思います」

 

信濃毎日新聞文化欄金曜アート 2015年6月12日 


『長野市民新聞』6月13日

パリ画家が故郷展示 七二会出身の早川さん西後町で

人物や静物63展 小・中・高の同級生ら企画         秋田 大輝

   

 西後町の北野カルチュラルセンターで、七二会出身でパリ在住の画家、早川俊二さん(65)の市内で初の個展が開かれている。早川さんが通った小中学校、高校の同級生らが古里での作品展を実現しようと、実行委員を組織して企画。独自につくった油絵の具を使い、淡い色合いで表現した人物画や静物画63展を飾っている。

 

 早川さんは、中条高校(現長野西高校中条校)を卒業後、東京の美術専門学校に進学した。1974年(昭和49年)に油絵を学ぶためパリに移住。パリを拠点に制作を続け、日本国内では東京などの大都市を中心に個展を開いてきた。

 今回の個展では、陶器などの静物や女性を立体感豊かに描いた作品のほかに新作も20展展示。会期中は市内に滞在し、会場に足を運ぶ予定という。「感性が豊かな時期を過ごした長野での個展は自分にとって特別。来場者が作品にどのような印象を持ってくれるか楽しみ」と話している。

 28日まで。入場料は大人500円、大学生以下無料。午前10時~午後6時。月曜休館。実行委員事務局のブンゲイ印刷(☎268・0333)

                                                 

長野市民新聞 2015年6月13日


『長野市民新聞』6月20日

ながの 人模様 パリを拠点に活動する七二会出身の画家 早川俊二さん     秋田 大輝

 

 淡い色調で描かれた人物や静物の油絵。抑制的な女性の表情を描いた1枚は、繊細な筆遣いで見入る人の心を引き付ける。ヨーロッパ古典技術の「型にはまらない創造性」を追い求めて日本を飛び出し、芸術の本場パリで感性を磨きながら40年にわたり絵を描き続ける。古里・長野市でその軌跡をたどる初の個展を28日まで西後町の北野カルチュラルセンターで開催中だ。

 長いキャリアを経て、「平面の(キャンバスの)中に立体的な空間をつくる(描く)ことが絵画の本質」と確信を得た。どの作品でも背景は、対照的な暖色と寒色を一筆一筆重ねた独自な色彩で、立体感やその奥行を強調。絵の具は顔料を自ら調合してつくり、既成の画材にはない発色にこだわっている。

 1974(昭和49)年にパリに渡り、76年から国立美術学校で5年間学んだ。在学中は絵を一から学び直そうと、絵筆を一時封印。デッサンで描写力を磨き、最終年度に学内賞を獲得した。卒業後は再び絵筆を執り、描き続ける。

 19世紀のパリ画壇の生んだ巨匠ポール・セザンヌ(1839~1906)の絵のように、見る人の心に強く迫る作品を理想とし、「目標を頂上とすると自分はまだ山の麓」と語る。パリ国立美術学校で基礎をたたき込んだデッサン力に、筆の腕は追いついていないーと受け止め、「だから200年でも300年でも描き続けたい」。あくなき向上心をみなぎらせる。

 実行委員を買って出てくれた母校・中条高校(現・長野西高中条高)時代の同級生らの協力なくして、今回の個展はなかった。「わたしはたくさんの人に支えられ、絵を描かせてもらっている」。個展に合わせ6月末まで滞在予定の長野市で、少年期を過ごした古里への思いを熱くする。

                                                          

長野市民新聞 2015年6月20日


『新美術新聞』6月21日


『毎日新聞web』6月24日 シリーズ「幸せの学び」<その130>

信州からパリへ          城島  徹

 

 信州の山村に生まれ育ち、パリ在住40年余りになる画家、早川俊二さん(65)の作品と人柄に共鳴した中学、高校の同級生たちが奔走し、故郷での回顧展が実現した。優美で透明感のある淡い光をたたえた力作の並ぶ会場で早川さんは「信州の山々の複雑な緑の色合いが私の創作の原点。自分の信じた道は間違ってなかった」と感慨深げに語った。

 3年前の秋だった。「うちで個展をする画家が里帰りしているよ」。長野市内の美術館「北野カルチュラルセンター」事務局長の清水博純さん(65)に誘われ、四輪駆動車で山道をぬって、緑深き旧七二会村(現長野市)にある早川さんの実家を訪ねた。重厚な民家の居間に、かつての同級生たちと楽しげに語らう早川さんがいた。「パリで活躍する芸術家」というイメージではなく、控えめで人なつこく、「高校生のころには絵に熱中して毎朝、学校周辺の道でスケッチをしていました」とほほ笑んだ。

 中3の時に見たセザンヌの絵に触発され、東京の美術学校に進んだ。24歳で渡欧し、ミケランジェロはじめ本場の芸術作品に衝撃を受け、20代は黙々とデッサンに励んだ。30代は納得できる絵の具を探し求め、顔料から絵の具練りの研究に没頭し、本格的に描き始めたのは40代だ。美術団体に属さず、商業主義とは無縁の創作の日々が続いた。

 妻結子さんと質素な菜食主義を貫くパリの暮らしぶりに接した留学生は「穏やかで優しい気遣いのある画家」と話す。そんな人柄に同級生や恩師が「早川君の個展を開こう」と呼びかけ、450人を超える市民から協賛金や作品のカレンダーなどの収益金を集め、長野から札幌、新潟、酒田と巡回する回顧展「早川俊二 遥かな風景への旅」開催に至った。

 人物画や静物画など作品65点が展示された会場に身を置くと、浮遊感と解放感に包まれた森のような心地よさを感じる。水色がかった淡いグレーを基調とした女性像は宗教画のように神秘的な光を放ち、近づくとシャープに、離れると柔和に表情を変える。

「絵の具の間に布地を埋め込んでいます」。専用ナイフを駆使した重層的な画法を説く早川さんに苦労を重ねた悲壮感はない。独立独歩の芸術家を早くから注目してきた読売新聞の芥川喜好編集委員は改めて「稀有(けう)の人、驚異の人、空前絶後の人」とたたえた。

「僕の絵は技術的にはヨーロッパの技法を使っていますが、春夏秋冬の自然を慈しむ日本人ならではの感性で描いた油絵があることを示していきたいですね」。故郷の光と風や旧友たちから新たなエネルギーを得た早川さんの言葉が弾んだ。

 

毎日新聞web 2015年6月21日   


『読売新聞』6月21日

「時の余白に」   実りある孤立を貫いて      芥川 喜好

 

 「早川の展覧会、やることにしたからね」―――

 日本の同級生からパリのアトリエに電話がかかってきた時、「一週間考えさせてくれ」と返事するほかなかったと、早川俊二さん(65)は振りかえります。三年前の話です。

 そのしばらく前、久しぶりに帰国して郷里長野の旧友たちと飲み交わした席で、そんな話題は出ていた。しかし村の小中高校で同級だったというだけの素人が、簡単に展覧会など開けるものではない。

 費用の問題、会場探し、作品の輸送、保険や安全上の問題、難問ばかりではないか。励ましはありがたいが、現実のものとは思えぬ―――そう考えていた。だが同級生たちは本気らしい。

 一週間考えぬいて、とりあえず承諾の返事はしたものの、その時点でもまだ半信半疑です。やるなら、自分なりのレベルというものがある。みっともないことはできない―――

 パリと長野の間で頻繁なやりとりが始まります。十人近い同級生が実行委員会を発足させ、役割分担を決め、趣意書を各方面に送って賛同者を募ります。

 カンパを集め、会場を当たり、全国の早川コレクターに呼びかけ、素人ゆえのミスも経験しつつ、三年かけて「早川俊二長野展 遥かな風景への旅」をつくり上げたのです。作品六十三点、賛同者名簿には四五〇余人が名を連ねました。

 善光寺の御開帳が終わり、長野の街に普段の落ち着きが戻った今月。大門に近い北野カルチュラルセンターの全館を使って開かれた早川俊二展は、画家長年の研鑽の成果を素朴な友情の力で輝き立たせた、一つの夢物語の舞台でした。

 同時に、そこには異郷で孤独な制作を続けるこの作家の驚嘆に値する仕事の意味を、静かに考えさせる思索の場としての空気が湛えられていました。

    ○

 早川俊二さんは、六年前のこの欄で「群れを遠く離れて」と題して紹介した油絵画家です。長野市の西郊、七二会村(現長野市)で高校卒業まで過ごし、東京の美術学校を出て二十四歳でパリに赴きます。

 そこでぶつかったのが、西洋油彩五百年の歴史の厚みと奥行きであり、容易には太刀打ちできない異文化の「壁」でした。

 浅井忠は一九〇〇年、東京美術学校教授として渡ったパリから日本の弟に宛てて、「あと百年はどうなるまい」「見ないほうがよかった」と絶望的な手紙を書いています。

 浅井の二十一年後にパリにやって来た小出楢重は、「パリの絵なんてつまらぬものばかり」「パリで絵を習っているやつの気が知れないよ」といって半年で帰ってしまいます。

 反応はそれぞれですが、共通するのは、五百年の長大な歴史の前でどちらも性急だったということです。一朝一夕には成らぬもの、こつこつと土台づくりから始めるしかないものに対して、すぐに結果を求めないではいられない。近代の病というべき射程の短さです。

 手っとり早く流行のモードを持ち帰るだけの者も少なくなかった近代油彩の歴史で、早川さんのとった行動は冷静そのものでした。パリの美術学校に入り直し、デッサンに十年、自分の使いこなせる絵の具の研究に十年を費やし、それから自分の絵を描き出したのです。

        ○

 作品の詳細は十七年前の日曜版「絵は風景」で紹介しましたが、丹念に重ねられる筆触の内からさざめくように形があらわれ、壺などの静物あるいは女性の像を結んでいく。在ることの不思議を問いかける「生成」の絵画、油彩の堅固な物質性と、豊かなイメージ性を兼ね備えた吸引力にみちた世界です。

 昨年刊行された早川論集に添えた挨拶文で、早川さんは妻の結子さんとの連名で「集団に属さず、賞システムに関わらない、僕らの夫婦の社会的に孤独な絵画人生」と言っています。この言葉こそ、ものを創る人としての強さの秘密はあります。

 作品を創って発表するとは、一介の作者として、素寒貧の存在として、創って発表するということです。その覚悟のないまま地位や名誉に執着し自らを粉飾してあるく人々の不自由を見ていると、夫婦の自由がかけがえないものに思えてきます。

 禁欲的と呼ぶのは当たりません。油彩本来の堅牢で透明な絵肌の魅力を現代的によみがえらせるという、一つの行き方を究める。それは、困難だけれど十分に楽しいはずの仕事です。

 「展覧会作りも、早川が妥協しないので大変でしたが、楽しかったですよ」。実行委事務局を務めた宮澤栄一さん(印刷会社社長)は言います。

 長野展は明日までですが、開催希望が相次ぎ、七月十六日から札幌市のHOKUBU記念絵画館、十月三十日から新潟市の砂丘館、来年の一月五日から山形県酒田市美術館で開かれます。

 さざ波のような広がりです。

 

編集委員 

読売新聞 2015年6月21日

*この記事は「時の余白に 続」みすず書房(2018年7月17日発行)に収録されております*


『月刊美術』6月号

早川俊二 遥かな風景への旅

 

 早川俊二さんの美術館での個展が開催間近となった。副題に「380余名の市民による協賛と支援で開かれる展覧会」とあるように、在仏作家の支持者が資金や協力者を集って実現させた手作りの展覧会だ。

 1974年、24歳の時にフランスに渡った画家は、以来パリを拠点に今日まで活動を続けてきた。つまり、日本の美術界とあまり関わりを持たず、独立独歩の画業を営んできた。ゆえにその存在は、美術関係者の間ではマイナーだったかもしれない。日本での主たる発表は、東京のアスクエア神田ギャラリーで数年ごとに行われる個展だったが、そこには全国各地から熱心なファンが足を運び、比類なきその芸術を見守り続けた。

 数年に一回というペースで開催される個展は、まさに待望のものだった。崇高で神秘的な女性像、時の流れを封じ込めたような静物画…。ペインティングナイフを駆使した細かいタッチから生まれる造形や色は、誰の絵にも似てないどころか、絵の存在そのものの奇跡を思わせた。

 若き日にフランスに渡った画家は、ヨーロッパの各地で古典絵画に圧倒され、デッサンに明け暮れたという。「遥かな風景への旅」という副題は、その頃の経験をもとにしたものかもしれない。一方で、メチエにこだわり、絵の具の調合から研究を始めた。すべては、誰も描いていない絵を描き切るためだ。展覧会では、知られるざる画家40年の画業が、初めて明らかになる。

 

はやかわ・しゅんじ 1950年生まれ。73年創形美術学校卒業。74年渡仏。76年パリ国立美術学校にて彫刻家Marcel GILI氏に師事。83年Galerie Etienne de Causans,Maison des Beaux-Arts にて個展。92年よりアスクエア神田ギャラリーにて個展。現在パリ在住。

 

編集部 

 月刊美術2015年6月号


『US新聞ドットコム』7月22日 コラム「Kuniのウィンディ・シティへの手紙」

パリ在住41年の稀有な画家早川俊二の世界〜「早川俊二 遥かな風景への旅」長野展開催!

~チェリスト藤原真理コラボコンサートを経て

読売新聞編集委員芥川喜好氏講演会にて~        馬場 邦子

 

 「稀有な人である…あるいは驚異の人だ。比類のない人である…空前絶後である」と読売新聞編集委員の芥川喜好氏は、画家早川俊二氏をこう繰り返し表現する。6月開催の長野の北野カルチュラルセンターの「早川俊二 遥かな風景への旅」展での6月13日の講演会で、芥川氏は、41年もの長い間パリで絵かきとして黙々と我道を精進する早川氏の姿を「他に比類なき稀有な人」ととらえたのだ。 

                 

 芥川氏は、日本近代美術史をひもとき、自身の著書『「名画再読」美術館』の中の作品を見せながら、欧州で何年か修行し、500年もの歴史ある西洋油彩絵画に圧倒され、日本へ帰った浅井忠、小出楢重、岡鹿之助といった名だたる画家たちの絶望や性急さを取り上げた。

 それに比べて「早川氏は日本の近代の油絵の歴史において、日本の近代の人たちがみんな失敗してきたことを真正面からやっている際立った存在である」と重要な見解を示した。

 

 芥川氏は読売新聞の美術記者として35年のキャリアを持ち、1992年に日本記者クラブ賞を受賞し、現在は読売新聞の人気コラム「時の余白に」を執筆中。

 「ああ、やはり、早川氏の描き出す独特の比類なき絵画群が生まれた原点はそこにあったのか?!」と芥川氏の言葉に深い感動を覚えずにはおれなかった。今回の長野での早川俊二展は、さまざまなメディアで報道され、評判となり、今や早川俊二という画家は長野の時の人。この展覧会は、長野で生まれ育った早川氏の同級生と恩師が中心となって、約3年前に実行委員会を立ち上げ、全国のファンを中心とした人々に呼びかけ、500人もの市民の協賛金や作品のカレンダーやハガキなどの収益金で開催された。私も親しい友人に呼びかけ、カレンダーや資料を配り、まず早川絵画の魅力を理解してもらい、ファンになってから、関東から10人位の人々に長野に足を運んでもらった。

 実行委員会事務局長の宮澤栄一氏によると、協賛金は1口1000円にしたので、北海道や奈良、広島など全国各地のファンから応援が入り、いまだに1万円を振り込んでくれる人もいるという。誠実で実直な早川氏は、応援してくれた人々の一人一人にお礼の手紙を送ったという。

 宮澤氏によると、農業で早川氏を育てた母、徳女さんが黙々と絵を描き続けていた早川少年を見て、節約して絵の具を買い与え続けたという話に感動し、「お母さんが元気なうちにぜひ俊二君の絵を見てほしい」と思ったのがきっかけと回想する。

 そして、同級生3人で実行委員会を立ち上げ、徐々に輪を広げていったのだが、ここまで大規模になるとは思わなかったという。利益を顧みない市民による市民のための手作りのこれまた稀有な展覧会であるといえる。

 

 早川氏は、今まで数年おきに限られたスペースのアスクエア神田ギャラリーで作品を発表してきて、そのたびにファンが広がり、異国の地パリでコツコツ実績を積み上げてきた。

 決して既存の美術団体には所属せず、日本での商業主義的なものから離れ、パリに住み続けて41年という独立独歩の道を選ぶ。 1974年24歳で渡欧し、本場のミケランジェロやレンブラントなどの西洋絵画の名作に衝撃を受け、来る日も来る日も黙々とデッサンに励み、20代はデッサンを確立するのに費やす。

 自分なりの絵具の色を探し求めて、その色を探求し続けた30代。40代でやっと油彩画に自分の世界を確立し出し、1992年42歳の時日本で初の個展を開く。

 早川氏を見い出し、1992年から画廊で個展を開き続けたアスクエア神田ギャラリーの伊藤厚美氏が、1987年パリのアトリエで初めて早川氏のデッサンに出会ったときの衝撃を2004年の作品集の中でこう表現している。

 左手窓からのぼんやりとした光の中、画架の上のいくつかの描きかけと思われる絵が浮かび上がった。彼に促されるように振り返った時、私は震撼とした。その大デッサンが発する空気の中にある波動はいまでもリアルに私のなかで生き続けている。(「未来との出会い」伊藤厚美 『早川俊二作品集 1982-2004』より アスクエア神田ギャラリー発行 )

 

 早川氏は集団に属せず、賞を取って名誉を得るという既存のシステムに頼らない自由な環境で、徐々に徐々に自分の道を歩みながら、とほうもない時間を美の普遍性の創造に費やしてきた。私たちには想像もつかない41年間の日々の努力の成果がこの回顧展には結実しているといえよう。

 3年間にわたる多くの人々の善意によって支えられた甲斐もあってか、初めて早川絵画を観る人には驚きと衝撃を与え、全国から訪れた熱狂的なファンは、カルチュラルセンターの1階から3階までの新作20点を含む63点もの作品が一気に並べられた異空間に立ち起こる興奮の渦にまず立ち往生する。

  

 塗っては削り、塗っては削りという作業をペインティングナイフで交互に繰り返し、何層かの厚みをつけ、ブラインダーにかけ平らにしていくという13から17もの工程を経てできる下地作りは、一つの作品で10日寒にも及ぶという。そうやって苦労して生み出されたグレーあるいは水色と茶を基調とした独特の分厚いマチエールの中で、対象がうごめきながら静かに私たちに語りかけてくるのだ。

 画面から抜け出してくるかのような対象から発せられる不思議な力強い磁力によって、私たちの身体と心が美術館の空間と一体化し、目に見えない風となり、それが小さな竜巻のごとく体中を駆け巡っているような感覚。しばらく足が宙に浮き、体がフワフワしているような高揚感。これは早川俊二個展でいつも体感することだが、今回はそれが数倍の威力で私たちを圧倒する。

 斬新で個性的な作品は「観ろ、観ろ!」と私たちに迫り、主張を押しつけてきて疲れてしまう。鑑賞者からよく発せられる早川絵画に対する共通の感想の一つは、私たちに「媚びない絵」。写真で早川絵画ファンになり、今回初めて作品を観たさいたま在住の女性はこう感想を語る。

 「とても奥深い、観る人がいかようにも自分の感覚で捉えて観ることが出来る作品だと思いました。本物は迫力が違いますね」

 「媚びない、自分の道を貫いているような…静かだけど、とても強さを感じる」と小田原から友人とご主人と共にきた音楽家の山田浩子氏は語る。

 山田夫妻は小田原医師合唱団を率いていて、医師である山田洋介氏によると、早川作品のカレンダーを飾って、インスピレーションを得ながら、合唱団のみんなで練習に励むという。

 一般の人々がそう感じることを補足するかのように、芥川氏は早川絵画は自分のスタイルを主張しているような、人との差異を強調するような絵ではなく、哲学的な思索を誘うものがあると説明した。

 「2000年に入ってからの絵は、何か外側からこう描きましたという絵ではない。こうやって空気の粒子が空間を満たしている。そこに何かボーッと内側から物が現れている」「空気が漂っている。ぐっと凝縮して物の形が内側から現れてくるときの灼熱感というか、温度の感覚、光の感覚で、それがこうまさに立ち上がろう立ちがろうと…」と芥川氏が1997年読売新聞で初めて取り上げた「アフリカの壺」に関する記事を引用しながら、より詳しい言葉巧みな解説をした。

 2009年のアスクエア神田ギャラリーでの個展での揺らめく魅惑の女性像の作品群は、メディアでも評価され、反響が大きく、私もUS新聞に長いレビューを書いた。

(http://www.usshimbun.com/column/Baba2/Baba2-3.html)

そのときの代表作がこの展覧会でも数点でている。

 「このような絵は初めて観る」「引き込まれるような静かな世界」とは多くの鑑賞者の共通の感想だが、私たちの感性を究極まで引き上げ、研ぎ澄ませてくれるのが早川絵画の最大の魅力なのではないだろうか。

 2014年に実行委員会が発行した『早川俊二の絵を語る』という冊子には、新聞や雑誌の記事に加えて、早川ファンの奥深い洞察力のこもった文章や真摯な手紙、文学的な美しい詩が掲載されている。

 早川氏の目指す絵画世界とはどういうものなのだろうか。

 「宇宙全体を考えたとき、絵かきができることとは、対象を写すということではなく、その奥にあるものを追求していくと、結局は何か神が創った世界を模倣しているっていうことかなと思った」と早川氏は今回のUS新聞のインタビュー中、突然こんなことを語り出した。

 「神のようなものを描きたい」と1992年の日本で初の個展でのジャパンタイムズのインタビューでも言っていたのを思い出す。再び神という言葉が出てきたのは、展覧会出だしの6月6日のチェリスト藤原真理コラボコンサートの感想を聞いたときである。

 そのコンサートの模様をレポートしてから、早川氏の話を進めよう。

 藤原真理氏は日本を代表する世界的なチェリスト。チェロの女王とも呼ばれ、フランスのバイオリニスト、ジャン=ジャック・カントロフ、メンデルスゾーンの子孫であるルーマニアのビオラ奏者、ウラディーミル・メンデルスゾーンという2人の巨匠と「モーツァルト・トリオ」を組むほどの実力の持ち主。 2013年NHKの大河ドラマ「八重の桜」のエンディング・テーマを坂本龍一と共演。クラシックはもとより、宮沢賢治へのオマージュと幅広いジャンルで活躍している。そして、その藤原真理の演奏が早川絵画に囲まれた静謐空間に流れるという夢のような贅沢極まりないビッグイベントがついに実現した。

 コンサート会場は北野カルチュラルセンターの1階で、早川絵画ファンと共に藤原真理ファンも全国から駆けつけたようで、このジャンルの違う芸術のぶつかり合いがどういう化学反応を起こすか興味津々といった面持ち。2階は吹き抜けになっていて、2階にいる人々もコンサートの音が楽しめるような構造になっている。

 

 コンサートは、ベートーベンの『モーツァルトの歌劇「魔笛」の主題による7つの変奏曲』から始まった。ピアノ演奏はいつものコンサートと同じく倉戸テル氏。コンサートホールのように演奏者が段上ではなく、小さなスペースで観客と同じ床で演奏するので、その透き通ったチェロの波動が直接私たちの体に響く。

 世界の藤原真理が手の届く場所にいるという高揚感もあり、いつものコンサートより迫力を感じる。私の角度から藤原氏の背景に見えているのは、早川氏の初期の暗い重々しい絵肌の女性像。その女性像のイメージの残像が、同じポーズの2009年の洗練された透明感のある女性像と重なり合って、穏やかなチェロの音色と呼応し合う。藤原氏を囲んだ早川絵画の女性像が呼吸し、空間に漂い、その無数の色彩の渦が舞っていくかのようだ。

 そして、早川絵画とのコラボの頂点はやはり「バッハ無伴奏チェロ組曲」。一台のチェロという楽器が奏でる無限の広がりを感じされるような音の宇宙が生み出されるため、この曲は「チェリストたちの金字塔」と言われる。

 1978年第6回チャイコフスキー国際コンクールで2位入賞した藤原氏は、この「バッハ無伴奏チェロ組曲」の録音で文化庁芸術祭作品賞を受賞。藤原氏にとっても特別な曲らしく、毎年自分の誕生日にはこの曲を演奏する。

 そして、元々この曲を敬愛し、長年さまざまなチェリストの演奏を聴き続けてきた早川氏。藤原氏のコラボコンサート開催が決まって以来、藤原氏の「バッハ無伴奏チェロ組曲」を聴きながら、ある種のインスピレーションを得て、創作に没頭したという。

 3月のメールで早川氏は、「伝わってくる音色の小さな波動と大きな波動が聞こえてくるようだ。自分の絵がそれと同じように、光の波動が二重に発散するような絵を描きたいと思っている」と記している。

 このときの感覚はうまく言葉では言い表せないが、絵画と音楽の融合による無限の宇宙への広がりは増幅され、崇高な光が発せられたかのような瞬間が各観客には訪れたのではないだろうか。藤原氏も静謐な絵画空間に囲まれ、気持ちよく演奏できたようだ。

  演奏後、藤原真理という世界的に著名な音楽家と早川俊二という稀有な画家とのミニ対談がUS新聞のインタビューという形で実現したので、以下2人の会話をそのまま再現する。

 まず、藤原氏に展覧会場での演奏の感想を聞いてみる。

 「その昔、東独に行ったとき、美術館でオーケストラと一緒の演奏会があったんです。(周りに) 写真のような王侯貴族やその地の代々の侯爵とかの肖像画があったから…視線を感じる。目が合っちゃったりして…」と藤原氏は演奏しづらかった経験を笑顔で話す。「(早川氏は)直接的に視線を出してっていう描き方なさってないから….」と藤原氏。「(視線を)はずしてありますからね」と早川氏。「包まれる感じでなんとなく温かかったんです」と心に沁み入るような藤原氏の一言。

 「チェロの音色と絵の具のタッチが呼応しているように感じ、女性たちが呼吸し、動き出すような不思議な感覚に陥った」と私が演奏の感想を述べると、早川氏がこう熱弁する。

 「鋭いね…僕はね、今までCDで聴いてきて、今日初めて生の音を聴いた。全然違う。生の音色がね、やっぱり想像した通り二重に聴こえるんだ。最初のバイブレーションと次のバイブレーション、それがとてつもなく美しく、僕はそれを絵で描きたいと思っているんだ。(バッハ無伴奏)チェロ組曲はそれを一番感ずる曲でもある」

 藤原氏はここですかさず技術的なことを告白してくれた。

 「バレるんですよね。単純に書いてあるから、ちょっと破綻きたすと。どう発音させるかでほぼ決まっちゃうから、まあ多少の修復は期待できるけど…後の祭り」

 「僕は音色を土台にして絵を描いているような所がある。僕が集中できるのは音色なんです。真理さんの(バッハ無伴奏チェロ組曲)CDを聴いたときストンと落ちました。こんな音だす人いるんだとびっくりした。(今回の新作の)半分くらいは(藤原氏の音の影響が)入っている」とやや興奮気味の早川氏。

いつも6,7人ものチェリストの「バッハ無伴奏チェロ組曲」のいろんなスタイルを聴き比べて作品に挑んでいるという。藤原氏はコンサートで「バッハ無伴奏チェロ組曲」を弾く前に、さまざまなスタイルで弾ける大きな可能性を秘めた曲と紹介した。

 早川氏も我が意を得たりと、「どんな解釈もできるという非常に開放的なすごい芸術だと思う。バッハ(の音楽)とは神がおとしてくれたような音色だから、絵画もそういうもののはずだし、そうあってほしい」

 前述の早川氏が発した「神が創った世界を模倣しているのが絵画」というコメントに結びついたのである。

 藤原氏のチェロの生の音色を長年聴き続けている山田氏は、「早川さんのなんともいえない世界とふくよかな深みのある真理さんのチェロが合うなと思いました。絵と音楽は切っても切り離せないものなのかもしれない。音楽は後戻りできない時間の芸術。絵はずっと残っていく。時間の芸術と普遍性の芸術が一緒に(存在)するって素敵だと思う」とコンサートの感想を述べた。

 思い切って藤原氏に気に入った早川作品を聞いてみた。

 「事前に送っていただいたカタログで観てたけど、生の作品観て、全然インパクト違う。伝わってくる波長が違いますね」と藤原氏はまず全体の印象を述べる。

 一番気に入った作品は、偶然早川氏とツーショットで撮った時のバックになった作品「風景へ-2(Josette) ・ 2007」(2007-08) という茶色がかった崇高な女性像の作品を指した。猫好きの藤原氏は、その次に好きな作品として、その作品の隣の早川夫妻の愛猫を描いた「眠るtoto-2」(2006)をあげた。

 早川氏の前回の2009年の個展以降の道のりだが、2010年12月にウィーンのアルベルティーナ美術館で開催されたミケランジェロの素描展を観て、創造のエッセンスみたいなものを与えられた。

 そこで頭を整理していたら、東日本大震災が起こり、自分の考えに疑問が起こり、悶々として、しばらく作品に取り組めなくなったという。しかし、この大規模な展覧会の開催が決まり、新作制作への大きな活力となったようだ。

 早川氏のたぐい稀な群れない強さはどこからくるのだろうか。

 「後ろに下がると落っこちるから、常に前進していく。いつも成功するかどうかわからないような賭けをしているのが本物の絵描きってもんでしょ」と早川氏はその強さの源を告白してくれた。

 「今回は皆さんの力を借りたね。皆さんから英気をもらい、最大最高の展覧会になった。一歩地固めした感じ。これを土台に一つ上の段階に行ける!」と最後に胸をはった。かたわらには、無名時代から生活面でも精神面でも異国の地で早川氏を支え続け、誰よりも早くその才能を見抜いた結子夫人が微笑んでいた。

 

この展覧会は、長野展の後、以下国内3箇所で巡回される。

長野展: 北野カルチュラルセンター 2015年6月4日~6月28日

10:00-18:00 月曜休館

札幌展: HOKUBU記念絵画館 2015年7月16日~10月4日

10:00-17:00 月、火、水曜休館

新潟展: 砂丘館 2015年10月30日~11月29日

9:00-21:00 月曜休館・祝日の場合は翌日

酒田展: 酒田市美術館 2016年1月5日~1月26日

9:00-17:00 月曜休館・祝日の場合は翌日

 

文責 馬場邦子 写真撮影 森岡純・馬場邦子


『美術の窓』8月号 シリーズ「戌も歩けばbeau(ボー)に当たる」第70回

絵画の力が人を動かした        竹田 博志

 

 「崖っぷちの人生だった。後にさがったらもう終わり。あっという間のパリ生活四十一年。今思えばほんの二、三年の感じがする」

 二十四歳からパリに住んで四十年余。ひたすら納得のいく絵画を模索し、描き続けてきた画家、早川俊二の述懐は淡々としていた。

 ことしの六月三日、長野市の北野カルチュラルセンターで開かれた「早川俊二の世界 遥かな風景への旅」展の記者会見での画家の言葉である。その場にいた私には、パリの早川さんがいま、日本の、故郷の長野にいること自体、何かふしぎな気がした。背後の壁面に飾られているのは、一九八三年にパリの画廊で初めて開いた個展の出品作(大デッサン)をはじめ、一九八九年から二〇一〇年までに発表した作品の中から画家自選の作品群、そしてこの展覧会のために制作した作品を加え約六〇点。画家、早川俊二の初の大きな回顧展が日本で実現したのである。一九九九年に、アスクエア神田ギャラリーでその作品に出会って以来、私は早川の仕事に注目してきた。折にふれて同じ画廊で開かれる個展の紹介記事を書いてきた。早川のまとまった作品発表の場は、アスクエア神田ギャラリーだけだった。パリから描き上げた作品が送られてきた。細々とした一般公開だった。

 早川の絵は、今までにだれもが成しとげたことのない堅牢なマチエールで築かれていた。画面は透明なイメージで統一され、繊細な感性に裏打ちされていた。描かれているのは、カップや壺、貝がら、機械油差し、タンブラーなどの画家の身のまわりの親しみある品々。そして女性像。それまでに見たことがない表現だった。透徹したレアリスムとリリスム(抒情)が見る人の心をやさしくつかんだ。記者会見でも語っていたが、早川の画業の原点はセザンヌだった。「絵描きになろうという一番の動機の背後にはセザンヌがいた。セザンヌが絵の見方を教えてくれた」という。上京して初めてブリジストン美術館で本物のセザンヌ作品を目にして、「衝撃がすごかった」そうだ。その思いがやがて二四歳でパリへ行く契機となった。本物の油絵を心ゆくまでこの目で見たい。オリジナルの模写がしたい。そういう思いだった。あらためてゼロから絵を学び直そうと決心し、パリに居残った。パリ国立美術学校に入り、師ともいえる彫刻家、マルセル・ジリを知り、そのデッサン教室に学んだ。一九七六年から八一年までの五年間、徹底的にデッサンだけを鍛えられた。早川作品の堅固な描写の根底にはこの勉強があった。「絵画とは写すことではなく、創造することだ。光をつかむことだ」といい、こうも言ったという。「物をつくるということは、太陽をつくることと同じことだ」。デッサン三昧が早川絵画の第一ポイントだ。会場には、一九八三年にパリの個展で発表したタテ1メートル22センチ、ヨコ1メートル80センチの「黄昏の光」が出品されている。エンピツだけで描き上げられた巨大な画面が見る者を圧倒する。

 第二に早川が着目したのは絵具のことだった。市販の絵具ではどうしても自分の目指す世界が構築できない、と気づいたのである。三十歳だった早川は二十年間、自分で顔料とメディウムを混ぜ、練り上げるということを繰り返し続けた。「二十年かかってようやく理想に近い絵具ができた」と神田の画廊で晴れ晴れと語った顔が忘れられない。40歳ごろから、デッサン一辺倒から油彩画に手をつけ始めた。記者会見の場で早川は、「今の絵具は画家のために作られていない。売らんがための絵具。自分は、絵画のリアリティーは、絵具そのものにあると断言していいように思う」という。極言すれば油絵は、すべからく絵具にかかっているということである。今日までにようやく二十色ほどの自家製絵具をつくることができそうだ。

 私は、記者時代に、フランスへ取材に出かけたおり、パリのバスティーユに住んでいた早川夫妻を訪ねたことがある。とてもつつましい生活で「絵の行者」のような明け暮れだと思った。傍らで結子夫人がしっかりと画家を支えているのも心に残った。

 私は久しい間、なんとかして早川のまとまった作品の展覧会を日本でできないものか、と考えてきたが、なかなか方策がみつからなかった。それが、あれよあれよという間に今回の実現にこぎつけたことに感動し、また驚いている。早川さんの小学校、中学校、高校の同窓生の有志が長野で展覧会の実行委員会を組織し、さらに早川作品の所蔵家らさまざまな関係者とも手を結び、市民の力で開催へとこぎつけたのである。内覧会の案内状には、「不屈の精神で自らの求める絵画世界を築かんと辛抱強く一歩一歩を歩んできた早川の道に私たちは伴走を始めました。その伴走者は現在も増え続けています」と記されている。「伴走者」とはなんと素敵な表現ではないだろうか。今回の図録には二千十五年四月現在で四百五十余名の市民たちが長野展に協賛しているという。こうした人々が展覧会実現にはせ参じた最大のものは、早川絵画の持つ強い説得力、絵画の力だったと確信する。

六十点もの早川作品が一堂に会した長野展会場(六月二十八日で終了)。一階から三階までの展示場は、作品のはらむ澄明感が部屋の空気まで及んで、気持ちのよいものを実感した。画家自身は、いつもと変わらず冷静に日本展に臨んでいる風だった。結子夫人は質問に答えて、「今回の展示にかかわって、人と人とのつながりが、いかに大切なものかということを強く感じた。夫は絵を描き、私はデザインが仕事(今回のポスターなど関連するものを担当)。われわれ夫婦は“つくる”が、人生の主軸になっています。あらためていま、生きてる実感を味わっています」と述べた。

 日本展は長野だけでは終わらない。札幌展があり、新潟展があり酒田展が控えている。東京でも実現できないものか、といまはぜいたくな願望を私は抱いている。

 

「早川俊二の世界 遥かな風景への旅」

「巡回」

7月16日~10月4日/HOKUBU記念絵画館

10月30日~11月29日/新潟・砂丘館

16年1月5日~1月26日/酒田市美術館

 

たけだ・ひろし

1946年富山県に生まれ、70年早稲田大学文学部卒、日本経済新聞社入社、大阪本社社会部を経て東京本社文化部にて約40年美術を担当。元日本経済新聞社文化部編集委員。現在、多摩美術大学客員教授。


『ART ACCESS アートアクセス』7月24日

展覧会案内  早川俊二の世界 遥かな風景への旅     常盤 茂

 

北野カルチュラルセンター

長野県長野市西後町1603 tel.026-235-4111

2015年6月4日(木)〜 2015年6月28日(日)※月曜休館 10:00~18:00

※入館は17:30まで 入館料:一般500円、学生300円、中学生以下無料

 

早川俊二(1950年長野県生まれ。73年創形美術学校卒業後、74年渡仏。76年パリ国立美術学校入学、81年まで在学。無所属。パリ在住)の、1983年の鉛筆による大作「黄昏の光」から2015年の「nina」まで、全63点が一堂に会す。待望の故郷長野での初展観である。

すさまじい筆触の反復がもたらす、さざめく光の交錯のなか、女性像を含む、食器など不易流行、身近なモティーフが陽炎のように浮かびあがる静物画の数々である。目立つもの、目立とうとするものはなにもない。色彩、形状とも互いに謙虚に協調しあい、現実と未来のあいだにひっそりたたずむ。

 

その後、7/16~10/4まで札幌・HOKBU記念絵画館(札幌市豊平区旭町1-1-36 011-822-0306)、10/30~11/29まで新潟・砂丘館(新潟市中央区西大畑町5218-1 025-222-2676)、2016年1/5~1/26まで酒田・酒田市美術館(山形県酒田市飯森山3-17-95 0234-31-0095)を巡回する。


『美術名典』2016年版

美術界メモ

早川俊二の世界 遥かな風景への旅        常盤 茂

 

6/4〜6/28 長野・北野カルチュラルセンター

 

 早川俊二(一九五〇年長野県生まれ)は七四年以来パリ在住、知る人ぞ知る孤高の油彩画家である。その八三年の鉛筆による大作「黄昏の光」から新作「nina」にいたる六十三点が、幼なじみが発案しそれに共鳴した高校の同級生らの強力な後押し、美術教師も協力して、郷里長野の地で一堂に会した。さらに愛好者の引き手で札幌、新潟、酒田を巡回するに至った。これにより、その名と作風は全国に認知されることとなった。

 鋭い筆蝕の反復が生む、柔和な光のなかに、つつましく、浮沈するように女性が、あたかも彫刻のように時を止めてまどろむ。そうかと思うと普段使いの和洋の食器具が卓上にたたずむ。いっさいは静寂のなか、物語らず、平安、無垢のうちにある。ただそこに生じるのは、目にする者の深層を呼び覚ます聖なる領域、というだけである。

 出来合いの画材を嫌い、ひたすら自らの溶き油の研究とデッサンにつぎ込んできた。商業主義に染まらず、日本のバブル経済とも無縁であった。これは大いに幸いしている。洋の東西の差異ではなく、営々たる人類史、脈々たる絵画史に通底する「精神性」が、今日、二十一世紀前半に生きた人間の上にどう流れていたか、後世の人間が必ず見てとるであろう要素が、その空間には隠されている。


『狼煙』79号 12月29日

早川俊二氏の絵画断想    重田 暁輝

 

 いま、この絵を見つめているひとときが、きっと未来の自分にとってかけがえのない記憶として残るだろう、という予感を、ある種の絵画作品を前にして思うことがしばしばある。それは多くの場合、意識せずして、そのとき入り込んでいる絵画の作品世界の場所から、ふいに現在の自分の立っている場所が眺められ、絵画のなかの時空と自分が今いる時空とが交差するところで生じる、何か突然の閃きのようにして訪れる予覚のようなのだ。

 この度早川俊二さんの絵画に接して、この感覚を自覚的にいっそう深めたように思うところがあった。それは展覧会告知のポスターではじめて早川さんの絵画を知り、それに魅せられて以来、ずっと私の脳裡を離れないでいる。

 フランス語と英語に“souvenir”(スヴニール、スーヴェニア)という美しい語があるが、私が早川さんの絵画から受けた印象はこの語を中心にしてめぐっている。もとはフランス語の「思い出」、「回想」の意であるが、英語ではやや転じて「 土産」、「贈り物」、つまり未来へ記念として残るものという意味として使われる。この言葉の意味の若干の推移のなかに、記憶というものの本質が跡付けられていることをしばしば思い、興味深いものがある。

 早川さんの絵画から私がもっとも強く印象付けられたことは、その描かれている題材以上に、その繊細きわまる筆致、タッチの独特な質感であった。人物画にしろ静物画にしろ、私の眼はその中心に描かれている題材から、それを取り囲むさざなみのような筆触の密度に注がれる。そのさざなみか、あるいは風のなかの流砂か、この無限の流れを思わせる周囲のアトモスフェアによって、中心の事物はかえって永遠の滞留の刻印を与えられているかのようだ。私が早川さんの絵と “souvenir”という語とを結びつけるのは、彼の絵のタッチが生み出す印象と、記憶が回想されるときに脳裡に映る印象とが、どこかで似通っているように思われ、まさに彼の筆致の質感がそれらの触媒となっていると思われるからなのだ。

 

            *

 

 記憶のなかの世界は確かにこ のような映像をもって回想される、とモネのタッチを見てよく思うが、早川さんの作品は、あえて言えばモネや印象派の画風から物語性を取り去った、より純粋な記憶のイメージの描写のようで、それだけに私のなかに喚起された記憶の印象と容易に結びつくものであったとも言えそうである。あのような単純な新鮮さで描かれたようなスズメやレモンを、あるいは眼を射るように光る女性の髪の断片を、私たちは過去にどこかで見なかっただろうか。また画面の周囲を埋め尽くす無数の筆触から成るヴィジョンは、私にかつて波うちぎわで貝殻の破片の集積でできた白砂が、透明な波に繰り返し洗われるのを眺めていたときの、そのさざめきの印象を喚び覚ました。

「風景へ(Josette)」と題する作品に展覧会告知のポスターで見入っていたとき、このような印象と記憶とを触媒する作用は私には強度のものに感じられ、一瞬間のうちに、これは過去のどこかで見たイメージだという印象と、作品を見ている今という現在が、時間軸を通り越してすでに未来の地点から見られた位相に転じていることとが、ほとんど同時に感じとられたのだった。絵のなかの純粋な記憶の、その追憶的なイメージの出現が、見るものにもうひとつの未知の新たな追憶を生む、とも言えようか。

 この現在がすでにひとつの回想となっているという特殊な認識、そしてその回想が未来へ浸食していくとも言えるこの感覚は、その触媒となり支点ともなる眼前の早川さんの作品そのものが放つポエジーの故だと、その瞬間に思ったことをはっきり覚えている。もしそのときの私の脳裡に、ルネ・シャールの次のような言葉が念頭にあったからだとしても、私の絵画から受けた印象が真実から遠ざかっていたことにはならないだろう。むしろ詩人の認識がある体験を通して私たちに真実を見開かせるということは、往々にしてあることなのだから。――「ポエジーとは、再び資格を与えられた人間の内部の、未来の生のことだ。」(Poésie, la vie future a l’intérieur de l ’homme requalifié. « Sur la poésie »)

“souvenir”というフランス語と英語とが持ち合せる意味は、ここである記憶をめぐる真実の一面を明かしているようだ。思い出とは未来への贈り物なのだ。回想とは過去に向うのではなく、未来への方向をとって昇りゆくものなのだ。その高みから斜面をすべりおりてきて時間が留まるところがすなわち現在なのだ。この時間の逆流と滞留によって豊富にされた現在は永遠である。現前するポエジーである。早川さんの作品のなかにあるレアリテは、この永遠に流れては滞留し続けるポエジーの氷結のようだ。早川さんご自身がおっしゃった、「絵にはひとつの現実がある」という言葉が私の頭から離れないでいる。

 

            *

 

 私はあるいは早川さんの絵から受けた自分の印象にかかずらいすぎたかもしれない。これは早川さんの絵を契機にして私の頭に浮かんであれこれと考えていた観念を整理してみたものにすぎないのだから。実際、今年 (二〇一五年) 六月の長野での展覧会で早川さんの他の多くの作品に接すると、それまでの私の観念を無に帰せしめるほど、実物の作品から受ける印象の力は圧倒的であり、この質量の絵画に対峙するには、時間はいくらあっても足りないだろうと思われた。なにしろ画面の隅々にまで埋め尽くされた筆致の一つ一つが、私がここで言う触媒の作用をもって迫ってくるのだから。早川さんの作品はまさに吸み尽くしきれない泉である。

 展覧会の限られた時間のなか、私ができる限り脳裡に焼き付けておきたいと思った作品をひとつ挙げるとすれば、それは「まどろむAméry-2」である。眠れる女性は風と砂と波のなかに青い翳となっていまにも消え入りそうだ。けれどもその儚げな存在をかろうじて支えている彼女の枕元の、幾筋かの流れ射す斜光の戯れは、あたかも天上の使信がそっと彼女の耳元に永遠の眠りを告げ知らせる、そのささやき声を思わせるかのようだ。

 

             *

 

 あるいはまた、私はこうして早川さんの絵から受けた印象を言葉に置き換えることによって、何かもっと豊富で大切な記憶の印象を失っているのかもしれない、という疑念がふいに頭をかすめるようでもある。絵というものから受ける印象の豊富さに対して言葉はあまりに限定的で、抽象的なものだから。私はこの印象の泉を未来の回想のために、今は大事にとっておこうと思う。早川さんの絵は私にとって未来への“souvenir”の宝庫なのだから。

そのかわりに、私は早川さんの絵について直接にではなく、ある親和性のもとでここに言葉による記念を記しておきたい。それは、この長野への小旅行の伴侶として携えていったホーフマンスタールの散文集から、帰りのバスのなかで読んでいて不思議なほど早川さんの絵の世界との親和性を思わせる一文なのだ。早川さんの絵という“souvenir”との出会いに相応しく、その題するところ、「美しき日の思い出」“Erinnerung schöner Tage”――

このまったくの偶然の組合せが私のなかに引き起こした照応に、いったいどれほどの必然性があるものか、このことも以来頭のなかでくすぶりつづけていることであった。事後になって反省的に考えてみても、結局は言葉と視覚のあいだに横たわる乖離に気づかされるばかりのようであり、バスのなかでホーフマンスタールの文章を読みつつ、早川さんの絵画の印象が私の脳裡に翻転してあざやかに蘇ってきた時の、あの照応の光景を如何ともし難く、これにどのような説明も与えることはできないように思われるのであった。あるいはこのような体験は、あるヨーロッパの遍歴者がファン・ゴッホの絵から受けた言語を絶する感動を、伝達不可能であることを承知のうえでかろうじて手紙 のかたちで言葉に刻みつけ得たという、あの素晴らしい壮絶な絵画論を含む「帰国者の手紙」の作者を読むうえで、何かしら意味のある体験であったのかもしれない。その「手紙」のなかにある次のさりげない一節は今の私の心境によく当てはまる。「君、偶然のことなどありはしないのだ。僕はこの絵を見る運命だった。まさにこの時間、この混乱した気分のとき、この脈絡のなかで、だ。」

「美しき日の思い出」は、ホーフマンスタールが度々題材としたヴェネツィアでの、ある旅行者とおぼしき姉弟の過ごした一日を、ほとんど夢と現実の境界を融け合わせて、もうひとつの夢、もうひとつの現実として恣ほしいままな描写力によって描き出した、眼も彩な眩いばかりの散文の結晶である。次に引用するのはその最後の箇所、夜明けと早朝の場面である。早朝の光と風――早川さんの絵画に溢れるあのふしぎな明るさは、常に新鮮に繰り返される創造の朝露と、それを乾かす光と風と、そしてそれの地上に落とす明るい翳とが、この世に存在しつづけるが故のものなのではあるまいかと、ふいに思われもしたのだが、それもこのホーフマンスタールの光彩と陰翳の形象美に満ちた散文と、それに比すべき早川さんの絵画作品とが私のなかで結んだ情景の、ひとつの結果であると言えるのかもしれない。

 

 それは眠りであり、また、たえずあたらしい夢のなかへとあらたに目覚めてゆくことであり、所有にして喪失だった。自分の幼年時代を深い山の湖のように遠くに眺め、ちょうど家にはいるように幼年時代にはいりこんでいった。それは、自分を所有することであり、かつ自分を所有しないこと――すべてを持ちながらなにものをも持たないことだった。幼年時代の朝の大気と死んでいることの予感とがまじりあい、死者のひとりが闇の底へ底へと沈み込んでゆく一方で、地球は青い硬質の光のなかを漂い過ぎていった。 やがて、それはこちらへころがってくる果実になったが、手は冷たくかじかんでいて、つかむことができなかった。すると、冷たくかじかんだ手をして寝ているベッドの下から、子供の自分が跳び出して、果物にさっと手をのばした。夢の情景 のどれからも、アイオロスの竪琴のように、諧調の音が流れ出し、炎の反映が白いシーツのうえに落ち、早朝の海風か小机のうえの白い 紙を吹き動かした。眠りはすっかり滑り落ちて、石の床が素足に心地よく触れ、水差しからは、生きたニンフのように水がわれみずから躍り出た。夜がその力をすべてのものにそそぎこんだために、なにもかもがはるかにわけ知り顔をしているように見え、もはやどこにも夢はなく、いたるところに愛と現在があった。白い紙はあふれる朝の光にかがやき、言葉で埋めつくされたがっていた。おまえの秘密を教えてくれるなら、そのかわりに幾千もの秘密を教えよう、というふうに。紙のかたわらには、前の晩に置いた大きく美しいオレンジがあった。皮をむいて、急いで食べた。まるで、船がもう錨をあげており、ばくは大急ぎで未知の世界へ出立せねばならない、という感じだった。魔法の呪文のようなものが湧きあがり、ぼくの内部でぴくぴく動いたが、最初の言葉は思いうかばなかった。夢と夢見心地との影、透きとおって色のついたいくつもの影しか残っていなかった。いらだってむりやりそれらをこちらへ引き寄せようとすると、影はあとずさりして、まるで、宿の部屋の壁やふしぎなこしらえの古風な家具が影を吸いこんでしまうかのように思えた。部屋全体は いまなおわけ知り顔で、しかも人をあざけるような、うつろなものに見えた。だが、たちまち影はまたそこにあらわれてきて、ぼくが心から影に迫りゆき、忠実と不実、別離と滞在、こことかしことに同時にむけられたぼくの願いを、ちょうど水脈をさがす魔法の小枝のようにそれらの影にむけてあそばせていると、こう感じられてきた――ぼくはむきだしの石の床からいくつもの実在の形を眼の前に抽きだすことができる、抽きだされた形はひかりかがやいて実体をもった影を投げ、僕の願うがままに動いてかかわりあうのだが、ぼくのためにこそそこに存在しているにもかかわらず、おたがいのことばかり気にかけていて、ぼくの願望がそれらに、青年や老年その他ありとあらゆる仮面をこしらえてやりその仮面のうちで自己充足しているのに、それらの形といえば、ぼくから解き放たれて、たがいに求めあい、また、どの形も自分自身を渇望するのだ、と。――ぼくはそれらの形から身を離すことができた。それらの存在の前に帷を降ろし、またふたたび引き上げることもできた。しかもたえずぼくには見えていた。どっぷりふくらんだ雷雲の背後から、傾きゆく太陽の光が淡緑色の庭園に射しこんでくるように、風と水と火との荘厳さが、いわば上方から斜めに、精霊ともいうべき光となってそれらの形のうちに流れこんでゆくのが。すると、神秘の力をさずけられたぼくの眼には、それらが人間に見え、また同時に、風と水と火との元素が生み出したひかりかがやく実体に見えるのだった。

(檜山哲彦訳)

 

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 私が早川さんを知るきっかけとなり、長野の展覧会にまでご招待してくださったのは宮澤栄一さんです。ブンゲイ印刷の社長さんとして、また長野詩人会議の会員としてこれまで間接的にお世話になってきた方が、同時に早川俊二長野展実行委員会の事務局長でもあられたことを知って、機縁というものの不思議さを思わすにはいられませんでした。早川さんと中学の同窓生として、今回の展覧会の発起人であられた宮澤さんの、長野展へ注ぐ熱心な思いや、早川さんの人となりについて親身でありつつ、同時にその芸術世界の遠大な途方もなさをも思わせる魅力的なお話しぶりが、私を早川さんという存在にいっきに惹きつけてくれたのでした。どうして早川さんのような、私にとってはヨーロッパのすぐれた芸術と優に比肩され得ると思える画家が、これほど身近な方々を介してつながるのか、いまだに不思議さと驚きが地鳴のように続いているようです。

このささやかな一文が、宮澤さんをお訪ねした一日と、長野展での一日の――早川さんご本人と、結子夫人との楽しいお話しの機会にも恵まれましたことも含め――心からの記念となりますように。

 

(2015年7月−10月)

「狼煙」79号掲載