早川俊二 巡回展の記録

 早川俊二の世界/遥かな風景への旅 ―酒田展講演会―

「早川絵画に見る東洋性」   講師・竹田博志氏

酒田市美術館にて 2016年1月10日

 

竹田博志:こんにちは。

 本日は会場いっぱいの方々に来ていただいて、大変光栄に思っています。長い間私は早川俊二贔屓を自称しています。日本経済新聞社の文化部で美術記者を40年弱やってきまして、私は作家、例えば洋画家、日本画家、彫刻家、あるいは陶芸、漆工芸などの先生方と親しくお会いしてきたわけです。早川さんにもそういう過程でお会いしたのが、最初のご縁なんです。2000年以来のことで、16年余になります。

 

 ところで私は酒田という所には3度のご縁があります。最初まず、ここで開かれた洋画家の宮崎進(みやざきしん)さんの展覧会を見に、ぜひ酒田に行きたいなと思って取材に来たのが最初です。その前に宮崎先生は2002年に横浜美術館で「よろこびの歌を唄いたい」というタイトルで、大きな回顧展をされまして、それまではずーっと伏せておられた自分のシベリアでの抑留体験の思いを平面と立体で表現された。強烈な作品で、それを見て私は、表現者としての宮崎さんのことにびっくりしまして、宮崎さんの展覧会のたびに追っかけてまいりました。

 2014年には、私の住まいの近くなんですが、神奈川県立近代美術館葉山で「立ちのぼる生命(いのち)」という大回顧展を開かれています。今94歳位なんですが、元気でおられます。私はここ10年ほど見てきた展覧会の中では、ダントツに衝撃度が大きかった。

 2度目は知り合いの画家、村上豊さんご夫妻と酒田・鶴岡を旅しまして、この土地の風光に触れ、土門拳さんの美術館も見てとても感銘を受けました。日経の文化面には「私の履歴書」という半生記を連載するコラムがあって、直接担当ではなかったのですが、土門先生もその「私の履歴書」の連載当時にとても迫力のある写真家だなぁと、人柄とその作品の力に感動した思い出があります。

 酒田でもうひとつ、かねて私がこだわってきたのは、鳥海山のことです。私が40年来、しょっちゅう晩酌の相手をしていた日本画家の小泉淳作先生という方がおられて、鎌倉の建長寺の法堂(はっとう)という、老師がお坊さんたちに説教をする所ですけども、そこに龍の天井画、「雲龍図」を描かれた。これは80畳敷き位の画面でした。それから後に建仁寺という京都の祇園のそばにある京都五山のひとつの法堂、120畳位の広さの天井に、2匹の龍「双龍図」という絵を描かれた。最後に、さらに東大寺の本坊という所に襖絵を40面も描いた方です。彼がそういう奉納画を手掛ける前に描いた最大の作品が「新雪の鳥海山」という作品なのです。小泉先生はこのデッサンをした時のことになると、もう熱弁をふるわれました。要するに、7日間滞在している間に一日も空が晴れない。鳥海山が見えない。冬だったんですけれども。最後の日に突然山容が見えた時があって、夢中でスケッチしたという話なんですが、今、帯広の六花亭というお菓子屋さんが運営している中札内美術村という所にその大作2点が収まっています。とても傑作だと私は思っています。

 

 さて、早川贔屓の私としては、早川さんの展覧会そのものの成り立ちがとても素晴らしいということを、まず言っておきたいと思います。そして、それを支えられた早川さんの小・中・高の同窓生の方々、そしてその周辺において更に展覧会を陰で、実現のために奔走された方々の力というものは、素晴らしいと思います。

 実行委員会を作って展覧会をするという試みはいくらもあるのですが、それには美術館、画廊の人、画商さん、新聞社の事業局などが絡んで、いわゆる業界の人によるものがほとんどなんですが、まったくそれとは無縁の人々がこのように立派な展覧会を実現されたことに感動しています。そしてそれほどまで人々を動かした早川さん夫妻とその絵画の力にも感動しております。

 

 早川さんと初めて出会ったのは作品の方が先でした。1999年の2月の展覧会で、この会場にもいらしてますが、アスクエア神田ギャラリーの伊藤厚美さんご夫妻が早川さんの作品を熱心に招介されておりました。私は画廊を訪れてびっくりして、その感想文を書いたのが1999年2月5日付けの朝刊の記事です。

 われわれ新聞記者というのは、短い記事なので、何で人々を説得し、美術館や画廊に足を運んでもらうかということに苦心します。そこで、何といってもその最初の一行というか、書き出しの文章が決まると嬉しいなというようなことがあります。

 アスクエア神田ギャラリーを出ようとしたら、出口のところに小さな雀の絵がかかっておりました。小品だったんですけれども、その雀は脚をすっくと伸ばして胸をそらせて、誠に見事な、言葉でいえば、いのちを活写した絵だなぁ、ということを感じました。あっ、これは「抜け雀」でいけるな、というのが私の発想で。皆さんご存知かもしれませんが、落語に「抜け雀」という、五代目の古今亭志ん生さんがとても得意にしていた噺(はなし)があるんです。雀の絵と画家の話なんです。

 簡単に言いますと、東海道をヨレヨレの姿で小田原の宿にたどり着いたひとりの若者が、小さな宿屋の亭主に声をかけられて、泊まります。そしたら朝昼晩何もしないで、毎度ただ一升ずつ酒を呑んでノウノウしていた。さすがに宿屋の奥さんが呆れて、そろそろ宿賃を請求しなさいといった。ところが全くの一文無しだった。それで、じゃあ宿賃の代わりに絵を描いていくと申します。あの新品の衝立に絵を描いてやるからといった。

 亭主は、あれは白いから商品なんで、ヘンなもの描かれたら売れやしないからダメだといった。それを強引に、雀を五羽、墨で描いていった。

 ある時、その衝立を陽にあてようとしたんです。二階に運び上げて、窓を全部開いて、朝の光がキラキラと輝いている所へ置いていたんです。すると中の雀がチュチュチュと声をあげて、向かいの隣の屋根へ飛んでいった。五羽とも。

 亭主は腰を抜かさんばかりにびっくりしちゃって、大変だぁと、奥さんを呼びにいくんですけれども、奥さんは亭主のやっていることが歯がゆくて、もう貧乏で食べるものも食べないでいるくらい。健康的でありがたいよ、というくらいの奥さんです。最初は信じなかったんですけれど、やはり実際にその “抜け雀 ”の様を見て、こりゃあ大変だということで。やがてそれが小田原中に広まって、その宿屋はまったく閑散としていたのが、そこのトイレにまで寝泊りする人が出てきて大繁盛となって。やがて小田原城主の大久保加賀守様の耳にも届いて、すっかり殿様も感心。「亭主、この絵を衝立ごと二千両で買ってつかわすが、どうじゃ」といわれる。「それは有難いんですけど、絵描きがこの絵を自分の許可なしに処分してはいかんといわれているので」、と。それを律儀に守っていたんです。

 そしたらある時、お年寄り、六十歳絡みのお爺さんが参りまして「何か雀が話題になっているようだが、拝見したい」と言って、その雀の衝立の前に座って観ていた。「相変わらずこういう間抜けな、ヘマな仕事をしている」とブツブツいいながら亭主に向かって、「この雀は五羽全部死んじゃうぞ」と。「落ちる」といいました。「とんでもない、そんなことある訳ないでしょ」、と亭主がいったら、「なぜ死ぬかというと、この絵には止まり木が描いてない。雀は安らぐことが出来ないから、いずれ力尽きて死んでしまうよ」といった。「わしが描いてやろう」と、嫌がる亭主を説得して、さらさらっと、鳥かごと止まり木を描いて立ち去りました。

 それからしばらくしてあの若い画家が参りまして、最初はもうヨレヨレの着物を着ていて、黒羽二重に白紋付がアカでよごれて赤羽二重に黒紋付というようなすごい格好だったんですが、今度は立派な黒羽二重姿で参りました。

「亭主、しばらくだったな」と。「実はあの雀が落ちるということをいわれましたので、止まり木を描いてもらいました」と亭主がいうと、「なにっ」といってその若者が二階へいってみると、鳥かごと止まり木とが描いてあった。

 それを前にしまして若者は、「父上、誠に申し訳ございません。至らぬ私をお許しください」といった。実はあのお爺さんは若者の父親で、名人だったんですね。それで、いうことには「ああ、私は何という親不孝者だ」と。「どうして、こんな立派な絵を描いてくださったじゃないか」、と亭主。「そうではない。私は父親を駕篭かきにしてしまった」というのが、この話の下げというか、オチなんです。

鳥かごを描いたから、カゴカキだっていう、駕篭やさんのカゴとをかけて終わっているんですが、僕にはその抜け雀のありさまが、早川さんの小さな雀の画面にぴったりだなと思ったのです。そういう表現の記事書きました。

 

 そうするとその記事が出た日の朝から、ひっきりなしに電話が鳴り続けまして、本当は伊藤さん夫妻にそのことを話して欲しい位なんですけど、連日の電話の応対がとても大変で、アルバイトの電話番を置いて対処したと。まぁ、東京はおろか日本国中から掛かってきたそうです。

 そんなひと騒ぎもあった記事を書いたのが、早川さんとの最初の出会い。早川さんご本人に会ったのは、その次の年です。2月に早川さんが日本に作品と共に来られた。2000年ですね。その時ですかね、「市販の絵の具じゃあ、とても私のイメージする世界は描ききれない。だから自分で顔料を練り合わせて、独自の絵の具を作っているんです」。ということを言われた。そして20年位工夫してきてようやく、「私の納得のいく絵の具が作れた」と、嬉しそうに語っておられたんですが。何しろ私は、早川さんの作品がアスクエアにくると必ず記事にしてきました。何となく、どう変わったのかが気になって。

 アートには進歩・退歩ということはないと思うんです。技術にはそれがあるけれども。絵画にはそれはない。アートは変化はするんですが。どのように早川さんが変わっていくのかなと見てきました。

 2004年の展示については、「ひたすらリアルに描ききったこれまでのものより、観る者の視線をいざない、吸い込むような深さ、深度が画面にあるように思う」と記事にしました。写実に徹した果ての新境地であろうというか、ま、これは素人の考えかもしれませんが、リアリズムの深さを早川さんの絵が訴えてきたような気がしました。

 それから2006年の展覧会の時には、聞き覚えたばっかりのレオナルドのスフマートという技法のことをたずねました。スフマートというのは物の輪郭をなだらかにぼかして描く、空気遠近法というふうにモノの本にはあります。絵に黒い線で人体の輪郭を描くということは、実はおかしい。実際に人体にそんな黒い線はどこにもないのです。レオナルド・ダ・ヴィンチはそのスフマートという技法を使って人体表現をしたのだといいます。それである時、イタリアで勉強してきた画家に、「スフマートって、どんなものなのか」って訊いたが、よく解りませんでした。で、その話を早川さんにすると「優れた人物画はレオナルドにしろ、フェルメールにしろ、輪郭線は線ではなく、ぼかして描いている」と。そういう明確な表現で私にコメントをくれました。

 それから2009年の展示の時には、グレーという、彼の作品にずっと通奏低音のようにある色がありますが、「私の作品の基盤になっている色はグレーである。思い通りのグレーがようやく出せるようになった」と。20年来使っていたジンクホワイトの絵の具を、2008年から別のメーカーのものに変えたら、透明感のあるグレーが得られるようになったという。それでそんなふうに早川さんの作品に会って、とつおいつ記事を書いて、パリに行けばパリのお宅に足を延ばして、いろいろ歓談させていただいたんです。

ここで最初に戻って「早川絵画にみる東洋性」というタイトルについて若干補足します。現代中国人が東洋というと、日本のことなんです。現代中国語辞典で東洋を引くと、日本とある。東洋人と書くと、日本人。東洋貨と書くと、日本の商品のことです。東洋の車と書くと、人力車のことなんですね。そういうふうに東洋という言葉は、古代中国にはなかったんです。

大辞林か何かには、14世紀にようやく東洋という言葉が使われるようになったと。しかもその東洋というのは、中国の南洋諸国の地理、物産や風俗の見聞録を著わした「島夷誌略(とういしりゃく)」という本があって、それに用いられたのが最初だそうです。

 それから16世紀の明の時代には、広東を通過する東経113度線を基準にして、それより東を東洋諸国、それより西を西洋諸国といった。東洋諸国とはルソン、マラッカ、ボルネオなどで、西洋諸国はアンナン、ジャワ、スマトラ、マラッカ、台湾とか琉球だった。日本はそれに「小」をつけ、小東洋といった。南インドは小西洋。で、ヨーロッパはさすがに大西洋というふうに呼んでいたそうです。

 ということで、中華思想の徹底した国ですから、中国を中心に世界は回っていて、中国の辺境地方は東西南北、東夷西戎南蛮北狄(とうい・せいじゅう・なんばん・ほくてき)と。東夷は東方の蛮人の未開の地、西戎は西方の、南蛮はまさに南の蛮人、北狄は北の。ま、匃奴(きょうど)とかあの辺の鮮卑(せんぴ)族とか、そういう人たちがおりますが、中国の勢いをうかがって中国に侵略しようとする人たちをそういうふうにいっていまして。海の向こうの日本列島蛮人の地にまで思いが全然至ってなかったんですね。

ま、余談になるんですが、人力車のことがある本に出てまして、人力車というのは日本人が発明した唯一の乗り物だとのことです。明治25、6年頃に、日本から中国に伝わって、それは「トンヤンチョウ」といわれ、やがて「ヤンチョウ」と呼ばれて広まります。ある記録によると、この日本人の発明した唯一の乗り物は、革命以前の中国では爆発的に流行しまして、1937年の最盛期には北京城内で約4万台もの人力車がいたということです。城の外を合わせると5万台に達していたという話であります。西洋人は絶対に人力車というものを作らないです。それは彼らの哲学ですね。人が人を引いて歩くというのはあり得ないことなんです。彼らには人を引かせるのは馬なんです。

 

 そういうことで東洋イコール日本だという近代中国的な発想をしますと、このタイトルは「早川絵画にみる日本性」ということになってしまう。本来の意図から外れて、ヘンテコな事になってしまって、ちょっとおかしいなぁと思っていたんです。これはそもそも早川さんが、私にこの講演会の話をしてきた時に、もう何しろ話をすることは絶対拒否だといって断ったんですけれども、「あなたは日頃、「気」のないアートは負けアートとか、死にアートとか、セコアートなんぞと言っているではないですか。その「気」というもので私の作品世界を考察してみてくれませんか」ということになってしまいました。

 まぁ、「気」というものは後からも触れる「気韻生動」の「気」なんですけれども、それは古代中国に由来します。東洋的な気韻生動という言葉を尺度にして、早川絵画を見直してみようかなと。早川さんは絵も上手いけれど、言葉も巧みでして、私はうかうかと挑発にのって、ここに居るという次第なんです。

気韻生動という言葉は、中国の南斉時代(四七九―五○二)の謝赫(しゃかく)という人が言いだしたことで、「絵には六法がある」と。つまり六つのポイントがあるというのです。一番が「気韻生動」で、これは作品がいきいきと生命感溢れるように描かれていること。「骨法用筆」は筆致が対象の骨格を捉えて、とても立派であること。それから「応物象形」はモノの対象がきちんと捉えられてかたどられていること。「隋類賦彩(ずいるいふさい)」はその象形するための着彩が見事だということ。「経営位置」は構図のことで、コンポジションです。古い時代には経営というのは、今は会社経営とかにしか使いませんけど、経営というのは配置とか布置を意味する意味の広い言葉だったらしいのです。「伝模移写(でんもいしゃ)」は古い伝統的なものを研究せよということと、対象をきっちり写すという二つの解釈がされています。

 私がこの「謝赫の六法(りくほう)」とか「六法(ろっぽう)」とかいいますが、それを初めて耳にしたのは、漆芸家の松田権六先生が夜話のついでに、中国の古代には「謝赫の六法」という尊い教えがあるのだと盛んに言われました。その中でも特に、気韻生動という言葉をどう日本語に移していいものかよく解らなかったのですけれど、この四文字がとてもきっちりとした挑発力を持っていました。芸術というものを気韻生動、気というものを通して述べることができないものかと思ってきました。

 さまざまな絵を見てきますと、これは気がないな、という感じの絵が、実は残念ながらほとんどだと思います。気のある絵というもの、気のある表現を捜すのがそれ以来私の仕事になってきたのです。これは「早川俊二の絵を語る」というテキストがありまして、その中で橋本宙八さんという方が書いておられます。早川さんが「作品に神を感じられないものはただのガラクタだと思う」と、思わず橋本さんに呟いたらしいんですね。僕に言わせるとこの「神」ということは、私の言う「気」に置き換えられるんじゃないかなと思ったのです。「ガラクタ」は「セコアート」といいかえられるんじゃないかな、とそういうふうに思いました。

 早川さんの神は、ただのGODではなくて、古代中国の美学でいえば、神(シン)という、思いのこもった深遠で魅惑的な用法だと思うんです。そういうものが作品に潜んでいるのが素晴らしい絵であって、それがないのはガラクタだと彼が喝破したと思うんです。とても興味深いことでした。

 私が尊敬する大コレクターで美の鑑識家で鑑賞家に山本發次郎さんというかたがおられまして。通称「山發さん」といいます。化粧品業か何かで財を成した人です。いちばん好きだったのは書なんですけれども、白隠さんとか寂厳(じゃくごん)さんとか三輪田米山(みわだべいざん)さんとか、そういう人たちの書を収集しておられたんです。絵画の方でもすごい眼力の人で、佐伯祐三の油絵を150点位個人で収蔵しておりました。それが惜しくも戦災で、かれは芦屋に住まいしてましたが、ほとんどのものが焼けて、わずかに疎開してあった41点が世に残りました。それとともに、トータルで500点位の自分のコレクションを、後年大阪市に寄贈した、そういう人です。

 私はその山發さんという人の言われる言葉がとてもいいなと思いました。「収集・コレクションもまた創作だ、クリエイトだ」と言われました。「収集もまた創作なり」というタイトルで日経日曜版に3回にわたって書いたんですが、その記事の冒頭の一文に次のように記しました。それは山發さんの言葉なんですが、「芸術は神に近いか遠いかで、位が定まります。情緒と感覚に純粋になれば、自由があり、創造があり、生命の溌剌さがあります。真似や衒いや偽りがあっては、凡俗で浮ついた血の気のない末梢的な芸術になりましょう」という言葉を最初において「山發さん論」を書いたんです。

 

 神という言葉はシンと読んだ方がいいのかも知れませんが、実は古代中国人の芸術観の中心にあったもののひとつです。いろいろな画論家が神品とか妙品とか評していますが、そのトップが神品だったんです。実は「謝赫の六法」を自分のテキストの中に取り入れた晩唐の人で、これも大鑑識家で、画家で、画論家だった張彦遠という人がおられました。その人が十巻に及ぶ『歴代名画記』という書物を残した。平凡社の東洋文庫に二冊本で出ています。その張彦遠が「謝赫の六法」というテキストを収めているのです。

 張家というのは中国有数の名家で代々の美術コレクターでありまして、一説には、時の中国皇帝のコレクションに匹敵するような素晴らしい内容のものだったといわれています。

その張彦遠さんが『歴代名画記』の中で、「自然が失われると神(シン)となる。(ま、神ですね)。神が失われると妙になる。妙が失われると精になる。精が損なわれると勤細になってしまう」。柔らかくなってしまうということですかね。「自然を上品の上、神を上品の中、妙を上品の下、精を中品の上、勤細を中品の中とする。私、張彦遠はこの五つの品等をたて、絵の六法を包括し、諸々の優れた作品を系統づける」と、表明しています。

 神という言葉が出てきて、ちょっと余談ですけども忘れがたいエピソードがあります。先ほど申し上げた小泉淳作さんは建長寺、建仁寺、東大寺の奉納画を描く前に、ひとりの絵描きとして、銀座の画廊での個展を何度も開いてきたんですけれども、ある日その画廊にふらりとイサム・ノグチがやってきたそうです。画廊の大将が「あっ、イサムさんだ」と見ていると、長い間、10分か、もっとか、長い間立ち尽くしてある画面に見入っていたそうです。知り合いだったので、「イサム先生どうしたんですか」と尋ねると、「この絵には神がいる」といったそうです。

 それは冬瓜を描いた絵なんです。小泉先生は冬瓜でも桜島大根でもアトリエの隅に長い間ほおっておきました。すると、表面がいろいろ枯れたり、腐ったり、傷ついたり傷んだりして、さまざまな変化をしてきます。その変化したのを見極めて一点の絵にまとめました。月のクレーターを見ているような、そういう冬瓜や桜島大根の表情。とても惹きつけられる強い絵が何点もありました。イサムさんはその冬瓜の絵に神が宿っていると直感したのだと思います。その絵も先程申しました帯広の六花亭が運営する、中札内美術村に展示してあります。

 

 そして更に私が、張彦遠(ちょうげんえん)が神(シン)という上に自然という言葉を置いたことが、とても興味深いと思いました。大体、神でいちばんてっぺんだと思っていたら、その上に自然という言葉を置いています。これは大自然の自然という意味ではなくて、「自ズカラ然ルナリ」という意味がこもっていると思うのです。

 張彦遠は顧愷之(こがいし)という中国の、謝赫の時代前後の人です。大英博物館に北宋時代の模本だと思うんですが、女史箴図巻(じょししんずかん)という作品が知られています。張彦遠はそういうものよりも「古賢人図」という、いにしえの賢人を描いた作品が、群を抜いて名品だと強調した上で、「この作品を前にすると、人は一日観ていても飽きない。絵は神(シン)をこらしているし、人の思いを遥かにしてくれて、深い悟りの境地を自ら会得するというような気分になる。善悪の判断を断ち切ってしまって、我を忘れた忘我の境地に陥り、解脱することができるのが、最高の絵画の理想だ」といっております。ここまでくると禅の悟りのようになって、よく解らないところがあります。

 

 先程の「早川俊二の絵を語る」を読んでおりますと、早川さんがミケランジェロのデッサンに出会ったことが出てまいります。それが私には誠に意味深長な話でした。ミケランジェロは、早川さんが最も尊崇する芸術だと、私は思います。彼がミケランジェロのデッサンに出会ったのは、大英博物館が持っております「聖マリアと聖ヨハネのキリスト磔刑図」というものだそうです。これは計算してみると、ミケランジェロ80歳前後の晩年の作品だと思います。早川さんはこう言っています。「対象を描写するという次元から成長して、創造するという意味を気付かせ教えてくれたデッサンであった」と。「その後、制作中、壁にぶつかって悩んでいるとき、何度となくこのデッサンの図版を観てはインスピレーションを湧かした」と言っています。

 それから2010年にはウィーンのアルベルチーナ美術館で、ミケランジェロのデッサン展があったそうですが、彼のお目当ては2点の「ピエタ」だけだった。ミケランジェロのピエタ像は1531年頃のものですが、これは若い時の作品で、56歳位ですか。そのピエタを観るために彼はもの凄く気合を入れてウィーン入りしているんですが、一日休んで体調を整えた上で、他のミケランジェロのデッサンには目もくれないで、そのピエタの前に突進したと言っています。ピエタを観たときの感想として、「不思議なのだ!今までどういうデッサンも、必ずというほど視点が合って、視線が止まるところがあるのに、このデッサンは近寄って30センチ位のところで辛うじて止まったのだ。こんな感覚は初めてのことで戸惑った。(中略)期待していたほど強い抵抗感がなくて、むしろデッサンを通り越し、その先の空間、宇宙とでもいえるような大空間に放り出されたような感覚だった。第一印象はこれ以上言葉にならなかった」というふうに書いておられます。

 皆さんは早川さんのことはよくご存知だから、この辺のことはとっくにご承知だとは思うんですが、僕ら凡俗の人間、絵をよくしない人間には、なかなかこういう表現は出来ないです。しみじみと、早川さんがその時受けた感動というものが、この表現の中に、言葉の中にあると思います。彼はそれこそミケランジェロのデッサンを、穴があくくらい、ずっと観ていたのでしょう。線を観て、こういうことも言っています。

 「黒鉛で引かれた繊細な線と調子で、絵柄が現れてくるまで忍耐強く積み上げるように描かれているのだ。(中略)複雑な調子が波動となり、眼を心地よくくすぐる」と。そのようなことを書いています。「白からリズミカルに無限大の諧調を経て、黒へ到達するのだが、黒から突如白に回帰し、再び観ることを繰り返して終わることがない。凄い絵だ!」と。「このデッサンはあまりにも自然なのだ」ということも言っています。勿論中国の、先程の張彦遠の自然とは違うんでしょうけれど、ここで早川さんは自然という言葉を使っています。

これはまた余談ですが、中川一政という画家はわれわれによく語っていました。「書は観るものだ。絵は読むものだ」ということです。ま、普通は書は文言を読むもので、絵は観るものだというのが常識だと思うんですが、「書は観るものだ」と。まぁ、パッと一見して、そこに隠されている、私のいう気韻生動している筆致が肉迫してくるかどうかが勝負だと。早川さんは、絵を読んでいる人だなということが凄く感じられました。

 それから第2の目的であった「赤チョークのピエタ像」を、彼はこう言ってます。「人体を描いているにもかかわらず、大自然を見ているような感覚を与えてくれる」。そういう思いが彼にはするんですね。凄い言葉だと思います。

 早川さんは皆さんもよくご存知の通り、74年の秋に欧州に渡って76年からパリのボザール国立美術学校に入学。油絵の勉強をするのではなくて、初心に帰って、彫刻家であったマルセル・ジリという先生のデッサン教室に毎朝通ったそうです。絵は深遠な空間を如何に創造するかが問題なのだと、彼は何かの時に語っていますけども、ミケランジェロのデッサンを総括して「期待していたものは想像をこえ、密で軽く豊か、強靭且つ繊細。これらは、開かれた自然であった」とここでも又、早川さんは自然ということを言っています。

 それで自然という言葉を古代中国の人も言い、早川さん自身も自然と言っているのは、人間が、そういう生きざまのものが、自分の周囲を取りまく大自然というものに常に啓発されながら、何事かをやってきたということの証しではないかと思うのです。それを、ま、ちょっと、牽強付会な言葉ですが、「自然と神」という言葉、そういうところを拾って、私は早川さんの創作の秘密に迫れないかなと、思ったんです。

  

 ではここで具体的に私が、少ないですが準備した作品の画面をみてください。これは北斎の「神奈川沖浪裏」という有名な絵ですが、ある時この絵を観ていて、これこそ気韻生動の典型じゃないかなと、サンプルじゃないかと、まったくの思いつきなんですけども、そのように感じたんです。

 

(この後数秒間音声不調のため聞き取れず)

 

 浮世絵がフランスに渡ったとき以来、ドビッシーにこの絵は霊感を与えて、「海」という交響詩を作曲したという話があります。欧米人はこの絵を「ビッグウエーブ」と呼び、北斎の代表作として賛嘆したわけです。北斎はだいぶ前に「LIFE」という写真誌がありました時に、「世界に影響を与えた100人の人々」というランキングを特集しまして、その中に日本人で入ったのは北斎だけでした。

 私にとって、北斎はやっぱり大天才だったなと思います。しかし北斎がこの波の表現をどこで見て、どこでこの形をデッサンしたのかなということがとても気になっています。

 やはり日曜版に北斎の連載を4回ほどやった時に、飯島虚心さんの岩波文庫の「葛飾北斎伝」などを、ためつすがめつ読みながら考えたんです。その証拠となるものはなかったんですけれども、ある時期北斎は自分の孫の男の子がとても道楽者で、やたらとお祖父(じい)さんに厄介ばかりかける。さすがに閉口し、一時期、江戸を去って三浦半島の一角に居を構えて、名前も三浦屋八右衛門と変えて隠棲していたことがあります。この「神奈川沖浪裏」の、神奈川というのは、「神奈川富士」の神奈川なんですかね。つまり神奈川から見たときに富士が波の裏側に見える。こういう構図なので、ひょっとしたら三浦半島に隠棲時代、こういう風景を思いついたんじゃないかと、こういう風景を見たんじゃないかと思ったわけです。

 横尾忠則さんはこの北斎の作品については、「北斎の眼は何という眼だ。何百分の一かのシャッター力を持った人じゃないか」と語ってくれました。でもどうしてこういう造形ができるのかと、未だに不思議です。

 また脇にそれるんですが、北斎のこのイメージの源になった作家がいたんじゃないかという話が、近頃チラホラあります。それは安房の国の伊八という宮彫師なんです。宮大工というのがありますから、神社仏閣に彫刻を奉納するような仕事をしていた宮彫師の伊八さんという人がいました。当時の宮彫師仲間では、「関東へ行ったら波を彫るな」といわれていて、それは伊八という人の波の彫り物が、これはレリーフが多いんですけども、もの凄く的確で見事なんです。その伊八さんの作品の写真を、小さなものでしたが何点か見ましたが、なるほどと思いました。この北斎のイメージのもとになったんじゃないかな、という感じもしないでもなかったんです。

 モノの本によりますと、北斎の浮世絵の方ではないんですけども、北斎はいろいろな面を持っていましたから、浮世絵の師匠ではないんですが、別のジャンルの絵の弟子筋に伊八と同僚の人がいたということです。その関係がつながれば、北斎は伊八の波の彫り物も見ていたかもしれないな、というふうに思ったわけです。

 それから次の2番目。これも北斎の作品をつらつら観ていたときに、この「赤富士」ですけども、これも版によっては随分色が違うんですが、この「凱風快晴」という絵は、私はまったく仮説、私見ですけれども、気韻生動という言葉は画面からこちらに迫ってくる、押してくるような力を持ったものと、画面の奥にどんどん引っ張り込んでいくようなとても静かなものと、2種類あるんじゃないかなという、ま、仮説を立てておりまして。この絵も気韻生動していて、波と違って静かに観る人の心を包みこみ内へと引きこむような作品ではないかなというふうに思っています。

 はい次、4番目お願いします。これは敦煌の249窟で、もうひとつ次の5番目がこれは雷神ですね。青い太鼓がいっぱいありますが、雷神で、もうひとつ上の方は風の吹く風袋を持っておりますので、風神。この249窟に入った時に、その時私は岸田夏子さんと中島千波さんと佐藤泰生さんという3人の画家を含め、合計5、6人だったんですが、敦煌を案内して歩いたんです。この249窟に入った時に、中島千波さんが「あっ、宗達だ」といって思わず声を出したんですね。まったく宗達の「風神雷神」の祖形ともいえるようなありさまが非常に素朴な、しかし力強い形で表現されていて、まさに気韻生動の好見本じゃないかと思いました。

 それで、この窟の風神雷神を取り巻いている中央には阿修羅像がすっくと立っております。阿修羅というのはもともとは悪神だったんですけれども、釈迦に説得されて仏法を守る良い神になったわけです。

興福寺の阿修羅像は若い初々しい青年の容貌をしていますが、それはお釈迦様に説得された後の、善者になった後の表現じゃないかと思います。

 付け加えますと、宗達が風神雷神の絵を描いた背後に、京都の三十三間堂の風神像と雷神像が、そのもとになったのではないかという説があります。宗達はもちろん京都の人です。三十三間堂で風神雷神像を観て、自分のイメージの湧きあがってくるのを参考にしたんじゃないかと。

 次は6番目の范寛の「渓山行旅図」という、この絵は写真がぼやけていて申し訳ないんですが、台湾の故宮博物院の、私にいわせると至宝のひとつじゃないかと思います。2000年だったですか、台湾の故宮がリニューアルオープンしたときがありまして、「大観展」というタイトルで展覧会をやっておりました。つまりリニューアルするにあたって台湾の故宮が誇る名品を、陶芸品や絵画や書や、もう、綺羅星の如くに並べて、素晴らしい展覧会でした。

 私は陶磁器の「汝官窯青磁(じょかんようせいじ)」に大変興味があったので、35点でしたが、台湾の故宮がこれぞ汝官窯の青磁だと見定めたものがズラリと並んでいました。私見をいえば、危ないのは清朝の、宮廷の窯で焼いた古い時代の焼き物の模作がとても精巧でして、ヘタをすると取り違える可能性があるというものが何点かあるんです。35点の中に2、3点そんなものがあるんじゃないかと、仲間の美術家と話したりもしました。台湾の故宮では汝官窯青磁の真物は35点あるということになっています。

 この「渓山行旅図」という作品は見上げるような巨大な作品で、この范寛の絵の右が郭煕(かつき)という人の「早春図」、その左側が董源(とうげん)という人の「萬嶽松風図」という、これも水墨山水画。この3点がひとつの壁面に横に並べて、范寛を中心に三尊仏のようにかかっておりました。

 ずーっと会場をひと通り見渡してまた、私はこの三尊仏の前に佇んで、首がだるくなる位長い間見上げていました。そうするとわれわれ一行の画家に、今年もう95歳になられましたけれども、バンバン仕事をしている野見山暁治という洋画家がおられます。彼ともうひとり、春陽会の入江観さんという方。彼らもずっとあちこち観まわってくると、最後にはここに来て、長い間この絵ともう2つの絵を観ながら、無言で見上げていました。

 横山大観に河北倫明さんという人が「先生、いい絵というのはどういう絵ですか」と訊いた時、「そりゃキミ、ひと目観た時にあっと思って言葉も出ないような絵が、凄いんだよ」ということをいわれたそうですが、まぁ、本当にこういう作品を観ていますと言葉を失くしてしまいます。

 それで、ちょっと面白い話がありまして、この絵の右の繁みの辺りに「范寛」という署名があるんです。台湾の故宮博物館のベテランの学芸員が1930年代か何かに、とつおいつこの絵を正に、ためつすがめつ観ていた時に、「范寛」という署名を繁みの中に発見して、それを論文に記しています。つまりこれは、隠し落款とでもいいますか、落款を巧みに隠すようにして描いているということらしいのですが、その人の論文の一説に、明の時代の大鑑識家で絵画理論家でもあり、画家でもあった菫基昌(とうきしょう)という人は、この絵の作者を当初から「范寛」と何の伝承もないのに言っていたということが書いてあったように思います。つまり菫基昌もその隠し落款が見えていたんじゃないかなということなんです。

 そういうことでこの絵は、のしかかってくるような圧倒的な迫力と、この下の小路からずーっと眼を辿らせていくと、絵の奥へ奥へと入り込んでいくような奥深いものとが、静と動とが共存したような凄い絵だと思います。この絵の評を加山又造さんにかつて日経に書いてもらったことがありますが、その時の話では、「この絵を観ていると、自分の目と心がどんどんどんどん絵の中に入り込んでいって、下から順番に上がっていって、いくら観ていても飽きない。凄い絵だね、あれは」ということを彼は述懐しておられたことを思い出します。

 

 それからここに早川さんの作品を出してみました。これは1999年とありますから、この絵を観て僕は落語の「抜け雀」を思い出したという、私にとっては思い出の一点なんです。それから次は、あ、これもそうですね。その時の「雀」です。それから後は早川さんの人物画。それから静物。身近な道具を描いているのじゃないかと思うんです。「缶」なり「陶器」なり、「錆びた機械油差し」ですか。なにかあの絵の背後に、これを使い馴染んだ人の手の思いがこもっているような、単なる静物画ではないなという感じがするのが、早川絵画の真骨頂じゃないかと思います。

 それから人物画についていえば、なにか早川さんはやたら面長の人物画を好まれて描くようです。まぁ、これは、目指すところはレオナルドのモナリザの世界への飛翔ではないかと、その時々の早川さんのモナリザなのではないかなと、感じています。

以上で作品の解説は終わります。

もうひとつ私は早川さんでとても素晴らしいと思うのは、さっきから言っているように手ずから絵の具を作り出そうとしたこと。それは、自分の世界を創る時には、市販のあり合せの絵の具では出来ないのだということを悟って、気の遠くなるような、いつ自分の絵の具が出来るか解らないようなこともありましたでしょうに、20年もかけて作られた。

この自分の手で作るということが尊いと思います。機械に頼らないということの面白い例が、古代中国の「荘子」というテキストに出てきます。

 

 ある時、子貢(しこう)という孔子の弟子が中国各地を巡歴していました時に、夏の炎天下、ひとりの老人が大きな甕を抱えて、斜めの坑道を下りていって、その底の所に井戸が湧いてまして、その水を汲みこんでは上に上がってきて、畑に水を撒いていました。そういうことを繰り返していた。それを子貢が見まして「お爺さん、お爺さん、何でそんな面倒なことをしているんだ」と。「今の時代は、跳ね釣瓶(はねつるべ)というとっても便利な道具があって、それを使えば、釣瓶で水を汲み上げて、それをぐっと梃子(てこ)の原理を利用して畑に水が撒けるじゃないか」と。

 お爺さんはすこしムッとしまして、「私もそういうものがあることは知っている」と。「しかしそういう機械に頼ると、『機心』といって、機械の心というものになり下がってしまって誠実な仕事が出来ないんだ。天に恥じるような仕事ばかりになってしまって、いけない。だから機械は使わないのだ」ということを子貢に言ったら、子貢はすっかり恥じてしまって、帰って孔子様に、その人のことを話したら「それはとんでもない凄い人だな」といわれたということです。まぁ、荘子や老子は大体孔子様を揶揄するような記述が大変多いですから、そのことを含めて言ったんだと思います。

 

 えーと、とりとめのない話で、何のまとまりもないんですけど、最後にオスカー・ワイルドという人の言葉をお示ししたいと思うんです。ワイルドという人はとても変わった人で、その経歴からして、犯罪者になったり、いろいろなことがありましたけれど、彼の言葉に「自然が芸術を模倣する」という言葉があります。自然の方が芸術を模倣する、と。普通は芸術家は、自然を模倣しながら芸術作品を作っていくというのが、順当な言い方なんでしょうけれども、ワイルドは自然が芸術を模倣すると、この非常に逆説的な表現をどういうふうに考えたらいいのか解らないのです。

 ある時に、また小泉淳作さんが出てきますが、小泉さんが東大寺の襖絵を描く時に、吉野の桜とその周辺の素晴らしいしだれ桜を沢山見て歩きまして、そのロケハンに私もついて行って、大宇陀(おおうだ)という所でしたか、又兵衛桜というしだれの巨木がありまして、それをスケッチにいったんです。まだちょっと時期が早くて、しだれ桜はあんまり沢山花が咲いていなかったんですね。なにか寒々とした花の咲きようで、なるほどと思ったんですけど。小泉さんはデッサンが絵をつくるうえで重要な仕事と心得ておられますから、スケッチしてそれで帰って襖絵に仕立てあげたんです。毎年4月の上旬3日間位は、東大寺は本坊を開いて小泉さんの40面の襖絵を見せておりますけど、その一角の襖は、その又兵衛桜であります。

 その桜は満開で、花びらが沢山ふり散るように描かれていて見事なものです。それを描いている時の話です。例えば小泉さんが、その花びらの形のスタンプを作って絵の具を付けて、ポンポン押していって一本の桜の木にならないかと、花盛りの桜にならないかと思った。なかなか上手くいかない。中島千波さんという画人は、さまざまな花を沢山、実に精力的に描いている人で、小泉先生はそのことに気がついて「中島千波君に、桜の花びらは一枚一枚描いたらいいのかどうか訊いてくれよ」といわれた。千波さんに電話して「こういうことなんですが、桜の花びらは一枚一枚描くんですか」と言ったら「はいそうです、一枚一枚描いてください」と言われてしまった。小泉先生は3ヶ月間、桜の花びらを描き続けました。そのお陰で腰を痛めてしまったんです。

 小泉さんの桜を観るとそれはもう盛大に見事な又兵衛桜になっていました。又兵衛桜とは書いてありませんけれども。見たときは寂しそうだった自然の桜が、その小泉さんの襖の桜を見ると、模倣したくなるような、「自分もこういう花を咲かせたいな」と思う位の雰囲気を持った桜が、出来上がっていました。ワイルドの「自然が芸術を模倣する」というのは、こういうような事情を言っているのかなと思ったのを覚えています。

時間のようですので、これで話を終わらせていただきます。ありがとうございました。

 

 

熱海:先生、ありがとうございました。

 只今の講演の中で、東洋・西洋両方の面から幅広くお話を伺いまして、特に早川先生の作品について、北斎とか敦煌の作品を例に、いろいろと深くお知らせいただいたと思います。これで竹田先生のお話は一旦終了いたしますが、ここにせっかく早川先生と竹田先生がいらっしゃいますので、皆さん作品をご覧になって何か早川先生、竹田先生にご質問などございましたら、どうぞ。どなたかいらっしゃいますでしょうか?

 

質問者1:絵のこと解らないんですけど、素人なりに、絵を描かれた早川先生にですけど、この優しい、こう幻想的な、やっと見つけたグレーの世界ということですけども、明るいような普通の色を使っていた時の気持ちと、こういう作品を、自分の世界の作品を描いた時とどういうふうに違うんでしょうか?

早川:質問がちょっとよく理解できなかったんですけど、描いている状態のことですか?

 

質問者1:描いている状態だったり、描き終えた時の気持ちはどんなふうなんでしょう?

 

早川:あの、描いている時っていうのは、もう苦しみだけ。出来ないですから、簡単には。あのほとんど、出来ない時はじっと観ているだけでしょ。まぁ、絵の具を付けるんですけども、初期の頃は失敗、失敗の連続でしたので。こういう柔らかい雰囲気が出てきた辺りは、自分でも感動するんですけど、出来てくるまでがもの凄く時間かかるんですよね。まぁ、こうやって出来上がって、僕のこの4つの展覧会で久しぶりに、20年振りに観る絵なども何点かありまして、「そうか、あの時そうやってここまできたのか」、という気持ちもありますね。あの時点ではもう全然出来てないかなと思っていたんですよ、実際には。

 でも実際、こう遠くに離してみて、20年経って自分の絵を観てみると、ああ、ここまでやっていたのかな、という、ある意味でホッとした部分もあるんです。でもこれが終わりじゃないんで、これを土台にもうちょっと、ひとつ上の世界にいけたらいいなと、そんな思いで今いるんですけどね。この4つの展覧会は僕の過去20年、30年のひとつの総括のような状態でしたかね。いいですか?こんなで。質問がよく理解できなかったので、答えられないんですけど。

 

質問者1:あたしも素人で、ただ塗り絵みたいに描くか、簡単に描くのと、やっぱり自分の求めるものをやっている時の気持ちとか。出来上がって、例えば私たちが観ると、1990年と2004年の作品の色合いと、見た目には似たように素人では感じるんですけど、先生の中ではやっぱり違うっていうふうに、思われるんでしょうかね。

早川:(笑)ええ、違うんですけど、実は。(笑) 

題材も同じでしょう。1990年位から題材はほとんど変わっていない。2010年位までの作、ほとんど変わってないように観えるんですけどね。自分では100歩位進んだかなと思うんですよ、これでも。何が違うかっていうと、例えば自分で描いている時に、最初はね、一ヶ月位かかったものが一日か二日で出来るようになったの、これでも。これはね、やっぱり絵の具の練り具合がずいぶん上手くなってきて、スムーズに描けて、というようなことなんです。

 あと若干違うと思うのは、観ていただくと解ると思うんですけども、最初の方がすこし、乾燥しているかなという状態です。新しくなればなるほど、絵は透明感がすこし出てきていると思うんですけど。自分で練っている絵の具で描く絵は、いちばん問題なのは透明感がなかなか出ない。これはもう苦しいことでした。本当にいい絵というのは、その世界にスーっと入っていくような、素晴らしい空間性を持っているんです。僕の絵もそのようになればいいかなと。というよりも、そういうものを望んでやっているんですけれども、なかなか出来なくて、この状態で終わっているんです。

 

質問者1:ありがとうございました。あの、解らない中にも、通り一遍では解らない事を伺えてありがたかったです。ありがとうございました。

 

竹田:あ、すいません。ひとつ肝心なことを言い忘れていました。蛇足ですが。気というものがどのようにして、具体的に人に伝わるのかということについて、いろいろ考えました。暗中模索していたんですが、2つの実例をお示ししたいんです。ひとつは棟方志功さんが、戦争末期に富山県の福光町(ふくみつまち)という所に疎開していました。棟方先生は石川の松任(まっとう)という町の、明達寺(みょうたつじ)という寺を訪ねていった。そこの暁烏敏(あけがらすはや)という変わった名前の人ですが、これは大正期の名説教僧といってもいいと思うんですが、日本全国を浄土真宗の教えを説いて歩かれた人です。この人の所に棟方さんは時々いっては法話を聞いていたんです。

 ある時に、彼は出来たての絵を持っていきまして、暁烏敏さんのお膝元に絵を繰り広げて見せて、お示ししたんです。「先生これが最新作です」と言ったら「おお、よぉ描けとるのぉ」と言って、暁烏先生は思わず嘆声を発したというのですね。

 実は棟方先生はこの言葉にびっくりしました。暁烏さんは若い時から眼が不自由で、ほとんどその当時は全盲だったんです。「先生、眼が見えないのに私の絵のよさが解るんですか」と聞いた。すると暁烏師は「棟方君、よいものからは霊動というものが出ているんだよ。つまり霊気が発動して、それがその絵を目の前にした者の所に届いてくるんだよ」ということをいわれたというのです。これは一種、眼の見えない人にも、いい絵を前にした時に、そこに何かを感得するという事例じゃないかなと思いました。気の働きではないかと。

 また、中川一政先生の盟友に石井鶴三さんという彫刻家がいました。この人はとても一言居士で、ユニークなものの見方をする人でした。「出た出た月が、まぁるい、まぁるい、まん丸い、盆のような月が」という歌詞にいつも怒っていたそうです。「月はお盆のような平たいものじゃないんだ、球体なんだ」と。この一言居士の石井鶴三さんが、ある時作品を、『入魂の作』とか『入神の作』とか評されてびっくりしちゃった。「作品に魂を入れちゃうと、私は死んでしまうんだ」と。「だから死なないように、私は魂を騙し騙し入れるようにしています」ということを、茶話の時に中川さんに言ったそうです。「うーん、それにしても魂を騙し騙し入れるのも難しいなぁ」ということを、お互いに話し合ったというのです。その2つのエピソードをちょっと思い出したので、補足的にお話させていただきます。

 

熱海:ありがとうございました。大変参考になるエピソード2つ、只今お伺いしましたけど、あと、お客さまの中で何かご質問ございますでしょうか?

 

質問者2:すいません。ごめんなさい、質問とかじゃないんですけど。安物なんですけど、私、このグレーと黄色っぽいストールをして、昨日鶴岡の児童館をちょっと見学していたんです。固有名詞を申し上げて申し訳ないんですけど、ここにいらっしゃるかと思いますが、溝口さんという方に偶然、私、話させていただいたんですね。で、初めて早川さんという人を教えていただきました。で、知らない人ですので「知らない」と申し上げましたら「実は酒田で・・」というふうなお話をされて。で、インターネットというか、ネットの画面を見せてくださって。で、この絵に出合いました。

 自分勝手に「ご縁ある」と思いましたが、断然の世界ですので申し訳ない話なんですが、この会場に、実は普通は雪があるので来れません。でもこんな状況の天気でしたのでやってきました。で、会場に入って、専門家じゃないので何をどう観ればいいのか、いつも悩むんですが。土門記念館には心を癒して欲しいと思ったときに来ます。その感じで、スーっと馴染める自分を思いました。だから、絵の観方は解りませんけれど、早川さんを信頼され、支援する人のタイミングと私の何も知らない個人のタイミングが合って、ここまで足を運ばせてくださった、絵の力だということを申し上げたくて、僭越ですが・・。ありがとうございました。

 

熱海:ありがとうございました。最終会場ということで、ここが「早川俊二展」の最後の会場なんですけど、お客様が仰ったように、そういったご縁が繋がって、これからもこの美術館で展覧会があったことが契機になって、先生の作品が全国に発信されていけばという、ささやかな願いを持っております。

 初めて早川先生の作品をこちらの方でご覧になったという方も、多数いらっしゃいますので、美術館から先生にひとつ、ご質問させていただきたいと思います。

 皆さまの後ろの方にも作品が飾られていますけども、非常にこの壁とも先生の作品は質感が合うんですよね。で、皆さん今のお話にもありました通り、この作品を観ると、とても柔らかい光と柔らかい色彩に包まれるという印象を受けた方が非常に多いと伺っています。まさにこれは印象派の絵でも観るような、印象派が放つ色彩と似ているんですが、美術館側からすると、すこし技法に興味がありまして伺いたいんですが、先生が制作される作品は、すべて作品のキャンバスの裏側に描いてあるんだそうです。

 普通画家は白い方に絵の具を置いていきますけど、先程も額を替えるということで、中を拝見しましたら、キャンバスが表と裏逆に張られていまして、あの麻布のザラザラした方に先生は絵の具を置いていく。そういった独特の描き方をされているんですね。そして一見平坦に柔らかく見える作品の表側の方は、絵筆を使わずにペインティングナイフを使われるのだそうです。だから私はこのペインティングナイフの使い方が、柔らかい光と色彩感の効果を狙って、先生が使われているのかなと・・。先程の竹田先生のお話にもありました通り、絵の具を独自で作られる方なんですね。そこまで素材にこだわって制作される画家というのも少ないという気がするんですけども。

 そこで、まぁ、先生にペインティングナイフを使って、キャンバスの裏に絵の具を置いて作品を創ったりするというこの制作ですけれども、これはやはりそういった効果、どのような効果を狙ってこだわりを持って、制作をされているのか。初めて観るお客さんの参考になればと思って質問いたします。

早川:そうですね、あの、僕がこの油絵をこういう方法で描くようになったのは、実は竹田先生がミケランジェロのデッサンのところを語ってくれましたけども、あのデッサンが基になっていまして。あのように油絵を描きたいな、という、そんな考えでいまして。だけど実際に、こう、(市販の)チューブ絵の具では絶対に出来ないので、これはどこかで絵の具を練り出さなければ出来ないかなと・・。

 ここに一点だけデッサンがありますけど、これは学生時代の最後のあたりの作品なんです。この頃からそろそろ油絵を描かなければいけないなと思って、絵の具をいじり始めていて、というか、チューブ絵の具を使って絵を描き始めていたんですが、もう全然、このデッサンの調子にならないんです。要するに絵にならないんです。

 一体どうしたら、このデッサンの世界に近づくことが出来るんだろうと思っているうちに、これは自分で絵の具を練って付けていかなければこの世界に到達できないかな、と思って。もう年代は32歳位でしたけど、時間はかかってもいいからやろう、と決断しまして練り始めたんです。でも、練ってやっているんですが、もう絵の具にならないんですね。付けてもほとんど白濁して絵が出来ない。

 そのような状態を何年も何年も続けているうちに、厚い壁を剥がしてきたようなテクスチャと、その中に柔らかい調子とをどのように組み合わせていくかが課題となって、ずっとやってきました。とにかく「練る」しかないので、毎日毎日練って、付けて、失敗して。また次の日も同じことをやって、何年も何年も続けたわけです。

 1983年にこのデッサンが出来まして、それ以後、最初に発表した(テクニックミックスによる)絵が、1989年でしたか。あのいちばん入り口にある絵が89年です。だからそこまで、作品といえるものは全く出来なかったんです。その後、望むような油絵が出来るまで、ただ練って付けて、練って付けてというのを10数年続けたわけです。

 どうしてかといいますと、ミケランジェロのデッサンにただ近づきたかったからです。

僕がもしあと10年、20年、30年と生きれたら、あの世界に近づくことが出来るかも知れない、というような処に今いるように思うんです。多分、僕が油絵でやっているこの方法で、ミケランジェロのデッサンの世界に近づけるだろうと思うんですけれど・・。

 出来る、出来ないは別にして、この頃は、デッサンと絵の具が割と近い感覚で出来ているんじゃないかと思っています。

 

熱海:ありがとうございます。出来れば早川先生から、このまま引き続きギャラリートークをしていただければと思う位ですけども、時間もございまして。ただこのままでも、講演会が終わりましても、早川先生、竹田先生、展示室の方にいらっしゃいますので、何かご質問ございましたら、お声を掛けていただければと思います。本日は記念講演会、竹田先生、本当にありがとうございます。拍手の方、よろしくお願いいたします。(拍手)

 

それではこちらの講演会終了致します。本日はありがとうございました。お時間のある方は、また鑑賞の方よろしくお願いいたします。

 

― 了 ―