早川俊二 巡回展の記録

「早川俊二の世界/遥かな風景への旅」

酒田展ギャラリートーク―「展示作品を前にして」

                    聞き手・酒田市美術館学芸主幹 熱海 熱  

酒田市美術館にて 2016年1月11日

  

「風景へ-2( Josette )-2007」の前で

 

熱海:皆さんお早うございます。昨日は早川俊二展の記念講演会を開催したんですけれども、ギャラリートークがなかったわけで、今回非公式なんですけれども、ちょうど早川さんが今日もいらっしゃるので、簡単に作品についての解説を伺う形で開催してみますので、よろしくお願い致します。

今まで4回の巡回展がありました。それぞれの環境で、日本家屋の中での展示をしたり、こういった美術館で、洋風の建物の中で展示をしたりということですけれども、早川さんご自身で今回のこの白い展示室の空間ですね、この中でご自身の作品がどのような形で展示されているかの印象をちょっとお伺いしたいのですけれども。

 

早川:もうとにかくね、4回の展示の中ではこの展覧会は最高。ほとんど完璧に近い状態で飾っていただきましたので、もうこれ以上作家にとって言うことは無いんじゃないかなと思っています。とても感謝しています。有難うございました。

 

熱海:でこの中で、68点作品が展示されていますけども、最大クラスの大きさの作品がこちらの方ですね。3メートル、5メートルくらい離れてみると非常に柔らかい色彩と、そして描線で表現されているわけですけれども、女性の方も初めて観ると、すごく綺麗な画面に魅せられるようです。実際にカタログを売られていますけれども、カタログと作品が、原画がこれだけ雰囲気が違う作品も少ないかなと思いますね。そういう中でこういう(画面を指して)全て塗る作家の方も多いですけれども、隅々こう塗り残しがあるようですけれども、こういったものは何か意識的にされているんでしょうか?

 

早川:そうですね、意識的にやっているんです。こうなったのは、入り口のところにある最初の頃の絵では、自分で絵の具を重ねて描いているんですけれども、失敗しての連続で、だんだん厚くなってきたのですね。それがなんとなくこれくらいの厚みになった時に、このようにギザギザと残っていたものが非常に面白いなと思ったわけです。けれども絵の具で厚くなったものはいずれ必ず剥げる危険性がありますので、これは自分でまず厚みを上手く定着して、永遠と付いているようなものを創らなければいけないかなと思い、意識的に厚みを作ってしまって、その上に描くようになって、こういうものが出来たんです。だからその理由は?ということでしょうね。お聞きされたのは?

 

熱海:そうですね。

 

早川:それはねえ・・。こういうことを自分で言うのは何なんですけれども、ここで(画面の縁を指して)絵という、物としての絵が感じられませんかね?(熱海:そうですね)ええ。要するに絵というものはやっぱり物質ですから、物質というのをものすごく強調したかったのね。それがこういう(絵を指して)ものなんです。で、絵柄というものは例えば、これはほかでも言いたかったのですけれども、マグリットという作家がパイプを描いて、「これはパイプではないよ」、「Ceci n'est pas une pipe.」というタイトルの絵があるのです。「これはパイプではない」という言い方をしてね、そういう1枚の絵があるのですけれども、こういう描かれたものは、例えばこれはジョゼットという女性を描いているのですけれども、ジョゼットではないわけです。もう全くイメージとしての幻想の世界ですよね。物質は(絵の隅の厚みを指して)これリアルなんです。これ本当に我々が生きているのと同じレベルのことなんです。これは(絵柄を指して)非常に観念的な世界、要するに頭の中の世界なわけです。絵というものはそういうものなんだと思って、それを意識的に皆さんに見てもらえればいいなと思って。ただ人によってはここ(周りの縁)からだんだん入っていく人もいるでしょう。けれども絵(柄)の中から逆に出てきてここ(周りの縁)で終わる人もいると思うんですよ。そこら辺を、観てもらう人には自由に観てもらっていいと思うんです。絵というものは、絵の中の世界に入ってもらわないと面白みは出てこないですから、自分でも意識的に厚みを・・、これをやらないと、これを隅々まで全部塗られたとすると、ただ単に絵(柄)の部分しか観えませんので、つまらない絵にしかならないかと・・、つまらないという言い方はおかしいですけれども、絵(平面絵画)のダイナミズムというものを感じてもらえないかなと思ったんです。

 

熱海:そうですね。やはり画家が制作する過程での痕跡を残して置くということ、そこを観ていただいて、そこから絵に鑑賞者が入っていく一つのポイントとしてこういった余白というか、処理をするという形ですね。表現としては写実ではあるんですけれども、絵画だから観念の世界なんで、そこら辺に入るための一つの入口としての形なんですね。

 

早川:そういうことです。だから、観る人が自身の頭の中に入っていく・・、観念の世界に入っていって欲しいのです。人によってはね、多分、なんで足を描いてないのかという人が出てくると思うんです。そういう人というのはね、これが(画像を指して)人間であることをもう先に見ようとしているわけです。それを逆転させたいわけですね。

 

熱海:そういう効果を狙っているということですね。

 

早川:それですね。それでついでに言いますけれど、結局、絵というものは物質によって作られているものですから、(絵を指して)こういう、マチエールと言うんですけれど、こういうマチエールの織りなす様が絵柄になるというのが基本になると僕は思うわけです。だからなるべく物の対象というものを塗り絵のように描きたくはない、だんだんマチエールが重なって行って、スッと出てくるような感じに物が出てくると嬉しいなと、それが出来たらいいなと思っています。そう、世界が創造される、と言うかな・・。

 

熱海:表面的な美しさではなくて、そういった物質というものを見極めて、それを重ねていった一つの完成形というか、表現されたものがこういった人物像であるとか。

 

早川:完成形ではなく過程なんですけれど。まあ、なんとなく一つの試みとしてこういう形に出来てきたというのが全部の作品です。昨日会った皆さんが「ほとんど大体同じで、ほとんど変わってないですけれど、どうしたんですか?」と・・。こっちだってものすごい苦労して変わっているつもりなんです、これで。でも、もの(描かれている絵柄)を見る人によっては全く同じにしか見えないでしょ。でもね、絵の世界というのは、例えばジャコメッティがそうなんですけれど、肖像画を描いて一生終えたわけです。でもね、初期から晩年までの絵が全部違うわけですよね。

 

熱海:えぇ、一見表面的なことを見ると変わりがない絵柄ですけれども、そういったもので捉えていくと、かなりの変化を作家自身は中に生み出しているということですね。

 

早川:そう、そうなんですね。僕は生み出しているつもりなんです、これで。

 

熱海:そうですね。遠目で見ると本当にパステル画じゃないかと思えるくらい柔らかい色彩と光を放っているわけです。で、早川さんからお伺いするとキャンバスの表側には描かないで、裏地の麻目が出ている方に描いているんだそうです。そして表面の処理の仕方もブラシというよりも、ペインティングナイフを主に使って画面を形成しているようですけれども、やっぱり絵の具もそうですし、ペインティングナイフが対応するということと、あとキャンバスの裏の方に絵の具を置いているという、そういうこだわりが、やはりこう言った表現の優しい光とか、それと、あとは線描ですね、こういうものも効果として考えられて、そういうこだわりは持っていらっしゃるんでしょうか?

 

早川:キャンバスの裏を使うということはどういうことかと言いますとね、これだけの厚みの絵の具を定着させるには、キャンバスの表を使ったら付かないんです、定着性が悪いもんで。だから、とにかく滲み込みやすいキャンバスの裏側の方に糊をしっかり滲み込ませて、絵の具が付いて欲しいと。こうすると剥ぐのが大変なくらいしっかりくっついていますので、まあ大丈夫だと僕は思うんですけれどね。やっぱり200年は持ってくれるかなと思うんですけど、ちょっとその結果は分からないんで一応今やれることの最大限ということでキャンバスの裏に厚みを作るというのが必然としてあるんです。(絵の画面を指して)で、まあ、皆さん線描というんですが、これ、ペインティングナイフで付けると、絵の具が付かなかった部分が白として残ってきているわけですね。描いているというより残った部分なんです、この白の斜線は。それが一つの効果として、重ね具合によっていろんな色のニュアンスが出てくる。皆さんが言っておられる布織りのようなものとか・・。そのような感じのものが出てくれば良いかなと思っています。昨日、他の人と話したんですけれど、大理石があるでしょ、大理石を削るとすごい柄が出てくるじゃないですか!微妙なもの(柄)が。そういうものも同じようにイメージしてやってはいるんです。(熱海:あぁ、なるほど)(早川:マチエールを指して)なんとなく大理石のような柄が出ている感じでしょ。だから大理石の壁に飾られた絵はものすごくマッチしているんだと思うんです。(熱海:えぇ、合いますね)呼応していると思うんですね。

 

熱海:むしろ白い美術館の壁よりも手前の方にある美術館の大理石の壁と呼応している、マッチしている、合いそうないい色の感じですね。で、こちらの展示室の中に大小それぞれの作品があります。額について質問させていただきたいんですけれども、シルバーでスクエアの額がありますが、こういったシルバー系のシンプルな額装になっている作品が多いですけれど、これは早川さんの、何か絵との相性とかイメージに合わせてこの額に至るようになったのでしょうか?

 

早川:最終決定ではないですけれども、要するにお金のことがありますので、まあこの辺が限度で・・、ま、例えばこれ(風景へ)は、この額の幅はこれでも良いと思うんですけれど、(隣の静物の額を指して)これはもう少し幅を広くしても面白いかな、ということはあります。でもそれはやっぱり金がかかるんで、僕にはちょっと手が出なくて(笑)。そういうことです。銀色というのはかなりいい線かなと思うんです。銀をこのように燻したような感じというのは、かなりこの絵に合っているな、と最近は思うようになりました。しばらくはこれで行きたいなと思います。(他の絵について)ちょっとこの白いのだと、これ浮いてしまうでしょ。(熱海:白いですね)やっぱり額が邪魔しているかな、というような気がします。

 

熱海:なるほどね。そうですね、作品に対してあまり額が主張しないで、調和しているような額を選ばれているということですね。この中で人物画が多いですけれども、こちらの猫でしょうか?こちらの作品を少し教えて頂ければ・・、ご自宅で飼われたとか身近な猫になるんですか?

 

早川:それはもうエピソードは・・。あの、「トト」と言いまして、押しかけ猫です。多分(生後)2ヶ月か3ヶ月くらいでやって来たと思うんですけど、僕がアトリエを借りていたところはずいぶん寒いところだったんですよ。1月ごろ(アトリエの建物に)迷い込んで来たんですけれどもね。一週間くらい階段にいて、何軒かの隣人達がそれぞれに餌をあげて、家においでと表明していたんですけど、僕は「こりゃ飼ったらまずいな」と思って餌はやらなかったんですよ。でも階段を上るところにちょっとした場所がありまして、そこに座って、毎日毎日上ってくる人を見ているわけです。それがもうすごく可愛かったんですけど、僕はなるべく目を合わせないようにしていたんです。一週間目くらいかな?僕が上ってきたのを見たら、すごい勢いで僕のアトリエのドアの前に行っちゃったの。それで、「あぁ、これはもう飼わなくちゃダメかなぁ・・」と思ってアトリエに入れたんです。それからおしっこの為の砂を買ってきて、ちょっとある食べ物を与えたら、狭いアトリエの中を飛び回って喜びましてね。これはもう選ばれたかなぁ・・、と思って奥さんに電話しましてね。その日はアトリエに残して帰って、翌日に奥さんと一緒にアパートの方に連れて行って僕らの家族になったんです。20年生きました。

 

熱海:20年ね、ご家族の一員だったわけですね。

 

早川:日本にも5度くらい来ましたから。(熱海:そうなんですね。)これはね、パリの生活では太陽が殆ど無かったんで、(トトが)こういう恰好して寝るのは少なかったんですけれど、東京はすごく太陽があったんですよね。これは太陽に気持よく寝ているところを写真に撮っておいたやつなんです。

 

熱海:それでまあ。一つの作品になるわけですよね。パリに行くと犬を散歩させている方が非常に多いような気がして、犬は多いけれど猫ってなかなかパリでね、あまりいないような気がするんですが。

 

早川:随分いるんです。家の中で飼っている人はね。

 

熱海:人物画を中心に描く早川さんの中で一つの動物画の作品ですね。

 

早川:動物はまだスズメとこれだけですね。あと鳩を1点か2点描きましたね。

 

 

「女性の像・クレマンスⅩ」の前で

 

熱海:あと人物画でこちらの方になりますけれども、フレームは白地の白っぽいフレームに入っていますけれども。

 

早川:これも銀地にしたら、絵はもっと映えるはずです。

 

熱海:そうですね。絵はもっと変わっていきますね。この絵はやはりモノトーンで装飾的なものは描かれていないし、こういう点、物というのは意識されてバックは処理されて描かれているんでしょうか?

 

早川:えーと、そうですね、難しい質問なんですけれども、結局さっきも言いましたように、絵というのはイメージの世界ですから、別に対象のように描く必要がないわけですよね。僕の場合はバックと物という、その二つの関係以外に入れたくないわけです。時たま色んなものを試してみるんですけれども、どうしても描写という世界に入ってしまうんですよね、(異種様々に)入れると・・。二つの関係だとそれ必要ないんです。ものすごく抽象的でしょ?バックの手前に一つの物体があるでしょ?それはかなり意識的にやっています。それで出来てきたものというのは絵画らしいものになるんではないかな、と思ってやっているんですけれどもね。

 

熱海:逆に言って、それに余計な装飾が省略された早川さんの作品は、まあ静謐で、そしてゆとりがあって、そういったものを与える作品と感じられるお客様が非常に多いのかもしれませんね。

 

早川:そうだと思います。結局後ろにね、なんか描かれていると、読んでしまう人がいるじゃないですか、そこにあるものを。それは必要ないんで、絵を見るときに読む必要はない、読み方が違うんです。だからマチエールの織りなす様を読んで欲しいわけです。もうそれのみです。それに懸けてはいるんですけれどね。

 

熱海:そういうことですね。ということは、見る鑑賞者のサイドからすると、その分では自由にイメージを膨らませて頂いても良いわけですね。

 

早川:もう本当に自由に、自由に、あらゆる意味で自由に見て貰いたいです。それだけですね。鑑賞者が勝手に見ていただいて良いんです。(熱海:そうなんですね)こっちはもう絵の中に引き込むだけ、そのことをやりたいだけなんです。

 

熱海:そういう意味でバックを意識的に描いてなく、省略していますし。で洋画家というのは日本画家と違って、やはり光の処理というものをすごく意識していると思いますけれども、早川さんの作品の中にあっては洋画的な光の処理と言うんでしょうか、そういったものというのは意識されてやはり描かれている作品なんですか?

 

早川:その洋画的というのは、西洋画の光?(明暗?)、例えば日本画だとそういうものが無いわけですね。光と影がないわけですね。(熱海:そうです)それはねえ、光と影というのは色が出る前の世界ですから、白、黒というのは基本で、それを土台に色が入ってきて欲しいというのが、ある時期からの僕の思いがありました。それがね、もっと平面的にしたらいいじゃないかという人もいると思うんですよ。例えば白い洋服ですからここまで白になって良い、そうなると日本画になってしまうんですけれど、空間意識が少し変わってきてしまうかなと思うんですよね。日本画の抽象的な空間でも良いんですけれど、そういう絵もヨーロッパにもあるんですが、どちらかと言えば光と影の世界に色が入ってくる、というような世界で、なんとか自分の世界を創りたいという気持ちがあります。意識的にそれは選んでいます。

 

熱海:そうなんですね。ですから、そうしたまったくの人物画にかぎらず、小品であるこういった静物なんですが、こういったところも基本的にそういったスタンスで作品がありますね。

 

早川:そういった意味では全く全部同じです。

 

熱海:同じなんですね。こちらは白地の壁に、まあアイボリーの壁に作品が並んでいますけれども、手前の大理石の方になるとガラッと変わるんで、その変わった背景の中でご説明を少し伺わさせて頂ければと思います。ちょっとだけ移動しますのでよろしくお願いいたします

 

 

大理石の部屋に移って

 

熱海:(大理石を指差して)壁面で普通の大理石はもう少し白っぽいんですけれども、これはマーブルで少し薄いピンクが入っている大理石になります。こうやって3枚の絵を掛けてみると、まあ他の絵もそうですけれど、非常に馴染んでいるんですよね。こうやって観ていても・・。やっぱり今お話を伺ったような理由で馴染むというところはもちろんあるとは思うんですけれども、最大の、この絵と大理石が調和する理由というのは、一つ上げるとするとどういう内容ですか?

 

早川:(絵の縁を指して)ここ、こうなるともう大理石がちょっと残っているなと思いませんか?そのままでしょ!(熱海:そのままですね)そういうことを連想して作っているんです。実際こうやってみてね、「あぁ、こうしたいな」と思ったのが、こういう形になったんです。だから大理石、石の柄というのもそうですし、例えば布のいろんな柄でも良いんですけれども、そういうものを自分のマチエールのイメージとして拾ってきているんです。

 

熱海:なるほどね。大理石というのはすごく硬いですよね、石ですから。ただ早川さんの作品は、見た目は柔らかい光と柔らかい色調なんで、柔らかさと硬さがどういう風にここで調和しているのかなと、観る人はちょっと考えるんですけれども、そこら辺、早川さんはどういう風に自分なりに意識しているんですか?

 

早川:まあ、僕の絵のみそというのはね、硬いものを使いながら柔らかく観えているというところが多分みそなんだと思うんですよ。だからね、それを皆さんが喜んで、というか、気持よく観てくれれば僕はもう本望なんですね。柔らかいものを柔らかく使っているのは、それは普通でしょ?でも、こうやって硬く、マチエールの硬い感じのものが、柔らかい絵柄になってくるって不思議な世界じゃないですか?

 

熱海:そうですね、そういう意味ではとても不思議な作品なんですね。

 

早川:だからそこら辺はね、まあ自分でもなんとか上手く勝ち得たかなというか、上手くやってきたかな、というちょっとした自信はありますけどね。

 

熱海:そうですね。遠目で見ると柔らかい光と色彩が、ああ柔らかい絵だなと思うんですけども、近づいてみると何層か激しい。(早川:激しい感じで描いていますよね)ですから画面というのはすごく硬質な、柔らかいものでは決してなくて、本当に石のように硬質なもので描かれているのが近くになると分かるんですよね。その硬質な硬さと大理石の硬さが、非常に調和が取れていて、ですから目減りするものではなくて、柔らかいものの中に硬い硬質な作品が、硬質な大理石に掛けられているということで、全然矛盾がないのかなとは、近くに行くと分かる作品じゃないかな、と。

 

早川:遠くに行くと、要するにイメージ、描かれた画、というか、絵柄というか、描かれたものは非常に柔らかく、そこいらへんは、やっぱり自分がやりたい一つの世界ですね。基本的にはね、正反対の白と黒とその両面が絵の中に入ってくるとかね、硬いもの柔らかいもの、それが入ってくるとか、そういうものを必ず意識して、正反対のものを導入していきながら絵が出来てきたら良いなというのが・・。だからその過程ですね。まだいくらでも対立するものがあると思うんですが、いずれいろんな形で入ってきて、僕自身の本当の、本来の僕自身が、過去にないようなものを創れたら良いな、と思っているわけなんですけども・・。

 

 

「黄昏の光」大デッサンの前で

 

熱海:あぁ、そうなんですね。やっぱりこれだけ人物画があると。それでパリ40年在住の早川さんですけれども、パリ国立美術学校(ボザール)で習われている時にも、徹底してデッサンを習われたということも伺っていまして、そうすると、やはりこの絵の前のデッサンというものも興味持たれると思いますけれども、中央に大きい鉛筆画がございますね。こちらの方、少し教えて頂きたいなと思うのですけれども。こちらは紙に鉛筆だけで描かれた作品なんだそうです。で、かなり初期の作品ですね。(早川:そうですね。82年か?)そうですね。83年の作品ですね。これは、モデルは、ご女性は?(早川:家の奥さんです)奥様ですか。描かれるのにどのくらいの時間を要するんですか?

 

早川:どの位かかったんでしょうかね?ちょっと記憶に無いんですけれど、最低1ヶ月。(熱海:1ヶ月ですね!)もっとかかっていると思います。やはり鉛筆でこれだけ黒く出て来るって大変なことなので、かなりあれ(苦労)でしたね。これをコンテとかね、もっと黒い着色が出来るものがあるんですけれど、それだと単調になってしまうんです。鉛筆で、なんか複雑で黒の中にも調子があるというようなことをやるには、やはり念入りにかなりマチエールを作り、交差させながら作らないと出来なかったかなと。出来なかったですね。

 

熱海:サイズはかなり大きい80号から100号位の大きさですよね。(早川:100号です)パリではデッサンとかをされるときに結構大きい紙にデッサンをされていましたか?学生時代から?

 

早川:このサイズはね、計8点創ったかな?(熱海:あぁ8点ですね)8点あるんです。日本には5点くらい来ていますけれど、あとの3点はあちらで、どなたが持っているか分からないんですけれど、ボザール、美術学校に1点、個人のコレクションが1点、あとアメリカに1点行ったのかな?そんな感じで消えてしまったたんで・・。もう今なんか取り戻しようがないんで、消えちゃったな、と思うんですけどね。

 

熱海:そういう意味では貴重な1点の作品になるわけですね。

 

早川:それはやっぱり傑作でしたので。まあこれを終えて、「うーん、デッサンはここまでかな」と。「今はこれ以上は出来ないかな」と思ったんで、やっと絵の方に向いたんですけどね。それからです、こうなってくるのは。(熱海:絵の具を使い始めたのは・・)この当時はもう市販のチューブ絵の具を捻って絵を描き始めていたんですけれど、こういう世界に近づかないんですよね。近づかないんで、どうしたものかなと思っているうちに、これはやっぱりもう、絵の具を練ることから始めないと、こういう世界に近づかないかなと思って、絵の具を練り始めたんです。

 

熱海:市販の絵の具を使うということではなくて、ご自身で調合して自分に合う絵の具を作られているということですね。

 

早川:そういうことです。例えばね、(デッサンの画面を指して)皆さん良く観えるか分からないですけれど、こういうふうに細かい調子がいっぱいあるんですけれど、細かい調子というのは(熱海:あぁ、この中にですね?)ただ塗っただけでは出来ないんですね。消す行為と付ける行為が交錯しながら出来てきた調子ですので、この調子をね、絵の中で出すといったら、筆でもっては出来ない。要するに、絵の具を重ねる行為をやっていかないと、こういう世界に近づかないかなと思って。

 

熱海:塗るというよりも重ねるということですね?

 

早川:ええ。だから、絵の具を置かなくてはいけないという思いがこの当時生まれたわけです。絵の具というのは塗ってはいけない、置かなければいけないということを思ったのはこの時期ですね。

 

熱海:(隣の静物を指して)そうしたら、こういったものは置いている、塗れるものではなくて置いているということですね。

 

早川:置くという行為よりも、定着するという行為の方が強いと思うんです。

 

熱海:ええ・・、そういう意味では一時、例えば点描法、ドットですね、点描法も絵の具をドットで置いていくという描画法ですね。

 

(少々録音途切れる)

早川:点描画というのは単調すぎて出来なかったのです。点描画というのはスーラあたりからずっとやっておられる人がいっぱいおられますけれども、スーラの絵を見るとね、スーラのデッサンというのは凄い硬質で、もう最高峰。デッサンでは最高峰のレベルの質があると思うんです。木炭画ですよ。その木炭画が凄いんですけれどもね、油絵になるともの凄く弱いんです。点描でいくらやってもスーラの硬質なデッサンに近づかないんです。僕は、もうスーラは絵を描くよりもデッサンに徹してやっていれば良かったな、と思うくらい格段の差があるんですよね。

 

熱海:油絵ではそこまで近づかない?

 

早川:近づかない!非常に貧弱な絵が出来上がってしまったなと思うんです。まあ有名な絵がありますけれど・・、スーラのデッサンは凄いですね。木炭デッサンでね、あの世界というのはちょっと他の人にはないくらい凄い世界なんですけれど、絵はね、駄作だと僕は思っています。

 

熱海:そういう意味では個展の時には、油絵もそうですけれども、デッサンも制作過程の中でどういうデッサンがあったかというのが展示されると、観る側にとっても参考になるわけですね。デッサンが優れた絵というか・・。

 

早川:そうですね。やはり絵画というのはデッサンが基本です。それはもうなんといっても。とにかく単純ですから、鉛筆でしょ?鉛筆という一つのもので複雑なものを作るわけですから、技術的な行為というのはものすごい単純なんです。それでもってね、凄いものを創るってことは大変なことなんですよ。やはりデッサンで傑作を創るというのは大変なことなんです。油絵でやると結局自分が誤魔化されちゃう、色があったり、なにしてとか、いろんなものでなんとなく観えてしまう。ようするに、よく観えてしまうということが幾らでもできるんです。

 

熱海:色で誤魔化すということですね?

 

早川:そうです。誤魔化すと言ってしまうんですけど・・、デッサンだと誤魔化しが効かない。

 

熱海:白と黒でねえ・・。

 

早川:ええ。何しろ一色で創らなければならないでしょ?その技術的に単純な分だけ、逆に言ったら非常に厳しい世界であるということです。だから墨絵の世界というのは非常に厳しい世界だと思いますよ。等伯の「松林図屏風」を見てね、ちょっと余計に墨が付いたものを取るのは大変だろうなと思いますもの。

 

熱海:えぇ、やり直しが効かないということですね。

 

早川:ええ、そういかないですもの。

 

熱海:そういう意味では非常に集中力を要するし、その絵描きの技量が分かるのがデッサンということですね。

 

早川:僕はそういうふうに思っています。自分のデッサンがいいというわけではなくて、これをもっと僕は発展しなくてはいけないんですけれど。デッサンというものはきちっと終えて、絵の世界に入っていかないと、まあ、ルネッサンスの大家とか後期印象派の大家のような人は、今後人類の中で出てこないと思います。やっぱり同じくらいのことをやらないとダメです。

 

 

小品・すずめ、静物の前で

 

熱海:そうですね。ええ、本当にその通りですね。まあこういう大作のデッサンございますし、あとは後の雀ですね。先程は猫でしたけれども、こういう雀なんかを描くにあたってエピソードなんかあれば教えて頂ければと。

 

早川:エピソード!これは自分で写真を撮っていまして。あの、パリの公園の雀です、これ。こういう、ちょっと飛び立とうしているような格好しているのがいたんで、これいいかなと思って撮ったんです。写真使っていますので、僕は。人物にしても沢山撮って。ドガのあたりから写真だとかいろいろ利用されているでしょ。

 

熱海:そうですね。ドガの踊り子もね、ありますね。

 

早川:あれは写真が無いと出来ないですからね。

 

熱海:そうですね。確かに出来ないですね。そいう意味では身近にあるものとしてはこういったお皿に入った果物なんでしょうか? あとは貝殻とか。

 

早川:そうですね。まあ要するに描きやすいものを描いたというか、非常になんというかな・・。

 

熱海:身近な手元にあるものでもって・・。

 

早川:ずさんな選択をしています。すみません。あの洋梨のね、それこそマチエールがこの絵には出てないんですが、手にとって見ると洋梨、本当に美しいんですよ。ピンクや緑や何やら、茶も・・。それが絵に出たらいいなと思うんですが、出ないですね。

 

熱海:まあ。こういうものを多数描いた画家の一人にセザンヌがいますけれども、セザンヌの描き方とかを早川さんの作品の中で、影響とか、意識されているようなものがありますか?

 

早川:意識されていますと言うか、セザンヌのタッチを使わないで、セザンヌの世界を創りたい。これが僕の最初の望みです。タッチを使ったらセザンヌになってしまいますので。

 

熱海:ええ、なってしまいますね。

 

早川:セザンヌの世界に到達するにはどうしたらいいか、というのが最初からの悩みでした。デッサンをやっている頃にもそういう悩みはありましたし。

熱海:そういう意識を持ってられたのですね。

 

早川:ええ、意識を持って。だけどセザンヌというのはね、人類美術史の頂点の一人ですから、あれだけのことをやったという人は過去にない。レンブラントというよりも、レオナルドというかミケランジェロとかの世界ですから、セザンヌはね。そういうセザンヌに行くにはどのようにするか、自分がどのような道を選んでいったらよいかといった時に、まず、セザンヌのタッチを使わないということを条件にしないとあの世界に近づけないなと思ったんです。だから(あのタッチを使わずに)世界に訴えかけるにはどのようにやっていくかということが、この大理石のこういうもの(大理石の柄)を利用したら、もしかしたら近づけるかな?と思えたのが、こういう技法になる理由だと自分では思っています。だから、これで出来てきた時、すごい良いものができるかなと期待しているんですけどね。

 

熱海:一つの素材として利用しておられるわけですね。そういったものがセザンヌ的な、そういうものの意識と合わさって作品になっているわけですね。

 

早川:セザンヌの有名な言葉でね、奥さんを描いていて「りんごは動かない」と言った有名な言葉がありますけれども、人物でも何でも「物」ですから・・。対象を追うということは、そういう意味で僕も同じような意識をもってやっています。ただ、できると良いですけれどなかなか難しいですね。あの、人類史の傑作ですので、相手は!(笑い)

 

 

観客の方の質問

 

熱海:本当ですね。はい、ありがとうございます。30分位先生から解説していただきましたけれど、皆様の中から何かご質問がありましたらどうぞ。折角の機会ですので。

 

観客1:このマチエールの作り方なんですけれども、その裏キャンバスにペインティングナイフで、こうかなり厚く塗られていると思うんですけれども、これは、どのくらいの回数でこうなるのかをちょっと伺いたいんですけれども。

 

早川:バラしますか!テクニックを・・。(笑い)あのねえ、実を言うと入り口の方に3点位、その今おっしゃられたような、塗って厚くなっているのがあるんですけれども。1年か2年くらい実際はかかっているんです。塗るとそのくらいかかってしまうんです。でも、それをやっていたら時間がないので、この厚みを最初に作ってしまうんです。で、その作るというのはどういうことかというと、これは布を貼ってあるんです。この厚みは大体3枚位。これは(絵が小さいので)2枚の厚いコットンを貼ってあります。

 

観客1:えー、それは全体的に包むように?それとも段差のところだけ?端っこの・・。

 

早川:(絵を指して)だからこういうふうに切った布を貼ってあるわけです。

 

観客1:はぁ、そこが3枚位ですか?

 

早川:この大きさだと2枚ですけれど、大作だと3枚です。それであの厚みになっているわけです。そうしないと、もう(絵具が)落ちてしまいますので。あのくらいの大作を絵の具で塗っていたらですね、そうですね、数年でボロボロと落ちて来る可能性十分にあります。重たくなりすぎて。顔料というのは重たいですから、それをどのようにして作るかっていったときに、布を貼ることを考えだしたのですね。布を貼って平らになるまでに、結局ただ厚みを作るためにだけで4年間くらいかかったんです。自分で絵具を塗って4年間ではなくて、布を貼ってこれだけの厚みになればいいかなという風に、決定的に完成したのは4年くらいかかったんです。デッサン終わったあとそんなような事をやっていたんです。

 

観客1:はあ~、そうですか、貴重なお話を有難うございました。

 

早川:バラしましたけれど、でもバラしたって問題ないことですから。(笑い)

 

熱海:まあ、あまり意識しないで制作すると50年位で剥落している作品が多数ありますし。ですからそういった自分の作品が50年後、100年後に今の状態を保てるかということも、多分早川さんは意識されて。ですからこの作品が100年経っても、200年経っても、そう言った意味でも追求されているわけですね・・。

 

早川:ええ、それはねえ、画家の義務だと思うんですよ。やはり500年、10世紀というと1000年ですよね。例えば今のルネッサンスの絵が500年、600年でしょ?それでも残っているわけですよね。だから、やっぱりそのくらいのものを残さなければいけないのは義務なんです。それはもう作家であるならば当然なんです。

 

熱海:そうですね、出す以上はそれをやって100年、200年、できるだけ同じ状態で保つように。

 

早川:そうです、そうです。残すということは非常に大切なことで、一旦出来たものが崩れていってしまったらそれで終わりでしょ?せっかく出来たものは、出来る限り長く観てもらうのが本来の姿じゃないですか。例えばこんなデッサンなんてこの一点しか出来ないわけで、この後これと同じものが出来ないわけですから、これ永遠と残って欲しい。また残さなければいけないように創るのが義務だと思います。作家のね。

 

熱海:ですからそういう素材として自分の作品が後世100年、200年の単位で考えながら制作されているのが早川さんの制作スタイルという形になるわけですね。

 

観客2:いいですか質問?このデッサンとかは指もすごく描いてあるのに、あちらの油絵の方は描いてないのはなぜでしょうか?

 

早川:この時点では「描かない」ということがまだよく解らなかったのです。デッサンというのは一番初期の頃ですから。絵というのはね、目でも何でも描かなくてもいい訳なんです。例えば頭なんか玉子型したものをボコっと付けていいんです。キリコなんてそういうスタンスの作家です。(熱海:そうですね)それでもいいわけで。手ですけれど、本当はね、手はピカソの手ぐらい綺麗に上手く創りたいのですけれど、僕にはそういう能力が無いのが分かったんで、手に集中していないのです。集中させないようにして作っているわけです。手は手らしいものがあるな、くらいで丁度良いかな、というように絵を作っているんです。僕の(絵の)焦点というのは多分、目だと思うんですけど、どの人物も。そういう風に思ったことはないですか?片目のどっちかの目に合わせるように、そこが焦点になっているはずなんです。そこから人々がどこかに空想、自分の世界に入っていけたらいいかなと僕は思っているんですけどね・・。

 

熱海:あくまでも作品はイメージで写実ではないわけですから(早川:そういうことです)そこが決定的に写真の作品と違うところですね。

 

(録音途切れる)

 

熱海:少なくとも絵画は、そこらへん、省略というものが技法で、テクニックだけで入ってくるんで・・。

 

早川:すごい絵というのはね、描かないで描かれているという、その世界です。(熱海:そうですね。存在をイメージさせるという・・)はい、そういうことですね。すごいデッサンというのはね、白い紙がないのでちょっと言いにくいんですけどね、例えば線をこうやって引くでしょ。そうすると内側と外に、もう空間が出来ちゃうんです。これ達人です。デッサンの!・・で、そういうデッサンをね、それを駆使してやったのがミケランジェロのデッサンとかセザンヌのデッサンみたいになるのです。あとジャコメッティか。凄いですよ!やっぱり描かないところと描いたところの組み合わせを駆使して世界を創っているというのは、もうほんと、創造です。もう神の創造と同じくらいの強いものが、神というのはGodではなくて、要するに宇宙、自然、真理としての神ですけれども、それと同じくらいの創造があるんです。芸術が創造というのはそういうことなんだと思ったのは、ああいう作品を見てからです。そうでなかったら、ああいうものに出会わなかったなら、もっと描いていたかもしれない、いわゆる描写をしていたかもしれない。

 

熱海:写実的にね・・。(早川:ええ、そういうことです)そうですね。やはり絵描きにとって多分一番難しいのは顔もそうかもしれないけれど、手ではないでしょうか?画学生の時代から、手というのは顔以上に表情があるんで、描けば描くほど難しい身体の部位ではあると思うんです。

 

早川:その通りです。僕には出来なかっただけです。(笑い)

 

熱海:はい。後は何かございますか?

 

早川:どうぞ、せっかくですからあまり機会がないので。ああ、じゃあ、ついでに僕一言。僕はこの半年間随分喋ったのですが、人生こんなに喋ったことが無かったのですけれど、一つ言いたいことがね、ジンクホワイトの欠点ということで。印象派というのはジンクホワイトが随分使われているんです。で、どうしてこう、印象派というのは絵全体が弱いかな?という風に、ヨーロッパに行って印象派の絵を観て思うんです。(印象派の)傑作を観ても弱く観えるんですね。その原因がどうもジンクホワイトを使っているせいではないかと思うようになって来たんです、最近。ジンクホワイトいうのは、亜麻仁油、リンシードオイルと鹸化するんです。鹸化というのは石鹸化することなんです。本来なら顔料の実態を定着しなくてはいけないものが石鹸のようにボロボロになってしまう、そういう科学的反応があるんですね。どうも印象派というのは、それで(絵が)弱体化しているんではないかと思うようになってきたんです、最近・・。だから、もうちょっと古い時代、例えばレンブラントなんかの絵のほうがよっぽど硬質でガチっと観えるわけですけれど、印象派になってくるとボソボソと観えてしまうわけです。それがね、多分描かれた時よりも余程絵が鹸化していて弱体化しているのではないかというのが僕のいまの見解。だから印象派は良い部分と悪い部分が後世に残ったなという風に思っています。まあ、これ公式ではなくて僕の感覚ですから。正確には分かりませんけれど。

 

熱海:まぁ、印象派の時代は白といえばいろんな素材がありますけれど、ジンクホワイトというのが主流で使われていた時代なんでしょうか?

 

早川:ええ、そうなんです。結局ね、ジンクホワイトというのは混ぜるとすごく綺麗なんです。いわゆる混色されると、たやすく美しくなる絵の具なんです。白の中でも容易に美しいグレーが出来る、だからみな使いたがるんですけれども、そのジンクホワイトを混ぜたグレーというのはみな弱体化していくわけです。ボロボロになっていくわけです。つついてみると分かるんですけれど中が空洞化している可能性が十分あるんです。それを鹸化というんです。石鹸化する鹸化です。まあ、レンブラントなんかの硬質なグッとくる白、例えばシャルダンの白とかね。ルーブルなんかに行くとね、(あの時代の絵は)その(白の)強さが本当に絵の基本なわけです。そういうものを印象派は捨てたかなと思うんです。

 

熱海:見た目の美しさを印象派は取ったと。

 

早川:ええ、そういうことになりますね。表面を追求したということ、選んだということですね。

 

熱海:素材の質とかそっちの方の・・。ですから、そういう形で制作をされている画家というのはそう多くはないというのは、今の話で分かったと思うんですけれども。

 

早川:そうですね。我々というのは、昨日までの過去を全て勉強して未来を作っていかなくてはいけないわけで、欠点も良い所も何も全てこう吸収しながら未来に一歩進めていくのだと思うんです。自分が何を選んでいるかということは非常に大切なことで、絵描きをもし出来るとしたなら、そのことを徹底してやるしかないかなと・・。まあ、そんなことが絵描きの仕事だと思うんです。

 

熱海:それを追求して来られたのもパリで。在住して作品を制作されて行かれるわけですね。(早川:そうですね)日本での4回の巡回は初めてで、なかなか日本国内でこうやって一同に御覧いただける展覧会はないんですけれども、こういった展覧会を機会に、またご帰国された時には東京かどこかで展覧会を皆さんご覧になる機会があると思うんですが。

 

早川:そうですね。その時はもう一歩進んだ絵を観て頂ければと思っています。まあ、未来のことですからどうなるか分からないですけれど、いい絵は創りたいですね。それで自分自身がね、「凄い絵が出来たな」と思えるような絵を創りたいです。これはもうしょうがないです。絵描きの業というかね、こういうのは性というのかな?僕にはよく分からないけれど、とにかく絵描きを選んだところから、最も優れたもの(芸術作品)にしたいという(欲望)、これはね、仕方ないことですね。

 

熱海:そうですね。その姿勢が失われると、やはり画家・芸術家としての活動は止まることになりますね。

 

早川:そういうことだと思います。ミケランジェロの言葉ですけれども、僕の大好きな作品が(ミケランジェロが)83歳だと、昨日竹田さんが言ったかな?あのあたりのデッサンが出来た時に「あぁ、やっとデッサンが描けるようになった。でももう死ぬ時期に来た」と言ったんですよ!「やっと出来るようになった」と、一生研究してね。やっと死ぬあたりで、なんとなくデッサンが出来るようになったと言ったわけでしょう?これはねえ、凄いことだと思うんですよ。やはり作家というのはそういうものなんだなと思うんですよ。死ぬまで一歩進んでいこう、もう一歩、もう一歩と・・。

 

熱海:終わりがないわけでしょうからねえ。

 

早川:そういう世界だな、と僕は思いました。

 

熱海:そうですね。ですからそういう意味でまた次回、先生の展覧会が皆さんご覧頂ける時には、また違った形で作品をご覧頂けることを期待しまして、今回30分位の臨時のトークでしたけれども、これで終わらせて頂きます。どうもありがとうございました。

早川:ありがとうございました。(拍手)

 

石川館長:僕も質問いいですか?

 

早川:どうぞ! せっかくですからどうぞ。

 

 

「ジョゼットの肖像」の前で

 

石川館長:この1988年の絵、何度見てもね、この絵だけが・・。(早川:違いますでしょ?)全くね、それはそうなんですよ。つまり朦朧体の絵というようなものがありますけれども、絵にもよりますけれども、ようするに輪郭を描くかどうか、輪郭の線を入れるかどうかというのは決定的でしょ?早川さんの作品というのは輪郭が無いというところが一つの輪郭になっているわけですよね。この女性を描いてある、これは初期ですよね、1988年だから。(早川:ええ、初期です)この絵だけ極めて生々しいというのはおかしいですけれども、なんかねぇ、ちょっと違うんですね・・。

 

早川:そのとおりだと思います。実はあのデッサン(黒の大デッサン)の後これに入るんです。

 

石川館長:あぁ~、そういうことですか。

 

早川:それでね、これでは(絵のバックを指しながら)これ、このマチエールが美しいんですね。非常にいいんですけれどもね。(「着衣するヴェラ」を指して)ここを観てもらえれば分かる。この位置と、この位置というの、はっきりあると思うんです。空間があるでしょ?ところがですね、(「ジョゼットの肖像」を指して)出ないんです、空間が。(肩とバックの部分を指して)これ同じ位置でしょ。この同じ位置に来ているのが僕にはどうしても解決出来なかったんです。この技法では出来ないということなんです。こういう風にして描く作家はいっぱいいます。でもこういう風に(「着衣するヴェラ」のように描く人)は、なかなかいないんです。

 

石川館長:ええ、ええ、そうですね。

 

早川:そこら辺がここからここまでの間の展開。ようするに、まぁなんとか成長した部分かなと思うんです。

 

石川館長:だけど、もちろんこのままでやって行く早川ワールドというのはとても気になるんだけれどもね。

 

早川:ありがとうございます。あの実はね、デッサンの後のこういう作品が4~5点あるんです。

 

石川館長:あぁ、ここから始まりなんですね?

 

早川:えぇ、これが始まり。悩みの始まりもここです。わりとこういう技法をやっている人がいるんですけれども、これでは僕が望んでいる世界が出来ないな、と思った作品なんです。だから貴重ではあるんですけど、もっと上に行くにはこれではダメかなと決定的に思った。

 

石川館長:ええ、相当飛躍がありますものね、他の作品に比べたら。

 

早川:はい、そうです。力強さが違うはずなんですよ。(「ジョゼット」の絵のバックのマチエールを指して)こういうものを面白がる人はいっぱいいるなあと思うんですよ。(石川館長:確かにそうですね。)実際にこういうの面白いんですけれど。でもね、(「着衣するヴェラ」を指して)こういう、この強さには、(「ジョゼット」の方は)負ける。いくら面白いと言ったって、(「着衣するヴェラ」のように)絵がへっこんでいて存在感があるというのはね、なかなか無いと思うんですよ、自分では。だからこれが出来たあたりは、ほくそ笑んだんですけどね。なにか少しやったかな、と思ったことがあったんです。(笑)

 

石川館長:ええ、立体感がありますね。(「ジョゼットの肖像」を指して)でもなんか気になっちゃいますねぇ。生まれるための悩みなんですね・・。

 

早川:そうなんです、そうなんです。あの、要するに問題点がここで出てきたんです。

 

石川館長:あぁ、なるほどね。

 

早川:いや凄いですね!「なんで違うんだ?」というご質問が・・。(笑)

 

石川館長:いや、どうも有難うございました。

 

早川・熱海:どうも有難うございました。

 

熱海:この後も早川さんいらっしゃいますので、何かご質問ございましたらぜひお声をかけてください。どうぞよろしくお願いいたします。どうもありがとうございました。

                                   ― 了 ―